自由詩時評 第16回 小峰慎也

目についたもの

また、時評なのに、古い話を、と思われるかもしれませんが、去年出た本です。
せきしろ・又吉直樹『まさかジープで来るとは』(幻冬舎、2010・12・16)は、前作『カキフライが無いから来なかった』に続く自由律俳句の作品集、第二弾である。前作も立ち読みしてみたが、立ち読みだけでいうのも申し訳ないが、『ジープ』のほうがはるかによくなっているように思えた。何かつかんだのだろうか。

老いた父が固いふたを開ける(せきしろ)
急に番地が飛んだぞ(又吉直樹)
本当に福笑いをやるのか(せきしろ)

 これ、俳句や川柳の人たち、どう読んだのだろう。読んで、気づくと一気に補っているのだ。それは、具体的なシチュエーションというよりは、欠落したものをそのままたのしむためのひろがりのようなものだ。人間の想像力を的確に刺激するには、これだけの「ボタン」を押せばいいのだ。千年残るものというのは、時代が変わって全くわからなくなっていくが「ボタン」は押している、こういうものだろう。
(2011年6月に書いたものを7月に修正)

 町田康の新しい作品集『残響 中原中也の詩によせる言葉』(NHK出版、2011・7・25)。中原中也の詩に、町田康が言葉をつけるというスタイルの詩集。町田のコメントは、中也の詩の解説や鑑賞ではなく、中也の詩に触発されて書かれた「作品」となっており、中也の詩と「対決」しているようにみえる。その対決のもようが、この本のみどころだと思うが、それは本書に当たってもらうとして、ぼくは、横道の、あまり重要でないことを思った。

 俺のなかにはとんでもねぇものがある。そしてそれはときどき俺の外に出る。そのことで俺はこれまで随分とつらい思いをしてきた。

  なぜならそれを見ると大抵の奴は驚き惑い、恐れ戦くからだ。女は逃げる。友人は裏切る。だから俺はいつも孤独に目的のない検索を繰り返すことになる。

(後略)

(中原中也の詩「三歳の記憶」につけられた言葉)

 町田康の言葉は、(おおむね)恥ずかしくない。痛い言葉、寒い言葉になっていない。この詩集で町田康が書いていることは、だいたいがまともだ。町田が書いていることを平たくいってしまえば、とりあえず、生活人の、つぶやき、思いとあまり変わらないだろう(違うかな?)。たとえば、仮定だが、人が何か書こうという動機を持ったとき、「つらい、苦しいということがあったとして、それをそのまま、うめいたのでは、とても陳腐なものになる。」と、わかったとして、だから、思ってもいないおかしなことを書いたりなどして、動機を解消してしまおう、ということがしばしば起こる。心の言葉そのままでは、たいてい恥ずかしい言葉になるから、それをはずすのだ(あるいは、そういうこともわからずに、そのまま書いてしまうのだ)。
 町田康がこの詩集で書いた言葉は、生活人のつぶやきとなるものを、鍛えなおしている(「俺のなかにはとんでもねぇものがある」→これは結構誰でも思うかも。だけどこんなふうないいかたでは思わないな。「そしてときどき俺の外に出る」といういいかたになってくると、誰でも思うことが、不気味な実体・感触を与えられている。平凡なものがぐっと非凡になるのだ。そのあとに「そのことで俺はこれまで随分とつらい思いをしてきた」とまた、そのままな言葉に戻る。やっぱり、誰でも感じることを書いているのだと思い返す)。生活人の思いに通じる言葉を、陳腐の底からひっぱりだし、聞くに堪える言葉にしているのだ。多くの、「共感を求める声」に決定的に欠けているものである。そして、多くの、非凡な言葉に決定的に欠けているものである。
(2011年7月25日)

 立ち読みで読んだ、井川博年「下宿屋と墓地」(「現代詩手帖」2011・8)が飛びぬけていいと思った。最初でつかまれたのだ。ほかのほとんどの作品は、立ち読みで読もう、という気にならない。(2011年7月29日)

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