自由詩時評 第18回 有働薫

詩の現在性――今現在から発する

テレビの中でまさしく童謡「どんぐりころころ」をなぞるがごとく《どじょうが出てきてこんにちわ!》と挨拶していた。自分で私はどじょうですと名乗るのにチョッと好感を持った。演説が良かったと、逆転の理由を分析されている。みんな言葉を信頼したいのだ。幹事長には輿石さんを任じた。これが6月の時点であれば、復興も外交ももう少し進んでいるだろうに。

言葉に内実を取り戻すこと。詩誌『現代詩手帖』8月号の夏の作品特集で詩人たちの現在意識を探ってみる。平田俊子の「警報器」《夢の中で起きたことは現実には起きない》は怜悧な視力。身の回りの些事に自分の全身を乗せて神経をさらに研ぐ。藤井貞和「冷暗」では《わたしは逃げないと、あやまちが言う。》私たちは失敗を許さなすぎたのではなかったか?個人としても私は数多くのあやまちを犯しながら人生を過ごしてきたし、これからも失敗はあるだろう。失敗とは何かを試みた痕跡なのだから。日常を価値を越えた意識の極地で生きよう。そこから発する自分の言葉に自分の信頼を託す、これが言葉というものの前提だ。井川博年「下宿屋と墓地」《ぽくぽく歩いて、娘に会いに行くことができるのだ。》哀切な愛に胸を衝かれる。ヴィクトル・ユゴーの国民的な詩「あした 夜が明けて」に重なった。水死した愛嬢レオポルディーヌは父によって現在も永遠の命を生きている。人間は愛によってこそ救われる。20年以上前にブレイクしたJポップ「愛は勝つ」を改めてCDで傾聴した。このシンガーは他にもたくさんのユニークな愛の曲を創作しているのを今まで気

づかなかった。音楽を持たない詩人は言葉の内在律によって音楽を暗示するほかない。詩人の意識は荒れ果ててはいない。

昔の話だが、メーカーに就職したのが私の社会人としての出発点でした。精密機械メーカーだったから、技術系の若い技術者がおおぜいいた。技能オリンピックで毎年メダルを取ったり、中卒の金の卵たちは新型機械の導入に昼食返上で辛抱強く試運転を繰り返し、無事回転し始めたときの快音を業務中の社内全体が傾聴した。東大出の係長が開通したばかりの新幹線のドアコックを自分で開けて投身自殺するという事件もあった。想像力は全方向に健在だった。

私も素人っぽい想像力で言ってみよう。もう出来てしまっている原子炉は当面安全運転を徹底しながら使い、新規建造はやらない。輸出などもっての外、他の国に自国の失敗を繰り返させないのが先進国のモラルだろう。欧米のインモラルを見習ってはいけない。その間に、やがてはそれに代わる潮流発電を、現在宝の持ち腐れになっている造船技術を活用して早急に開発する、その面で日本は可能性に満ちた資源国なのだ。そして火力、水力、太陽光も含めて補い合うハイブリッドシステムを構築する。風力は日本の地勢には不向きです。住民の低周波脳障害がこんどは公害として生じるでしょう。鳥から空を奪い、人間の脳が危機に晒される。

最近読んだ詩集から、3冊。阿部嘉昭『頬杖のつきかた』(2009年9月思潮社)を読みきれず。フェースブックで、気長に読めばいいし、次の詩集はもう少し読みやすくなる予定ですとコメントをいただいた。あせらないで再挑戦します。このサイトの責任者森川雅美『夜明け前に斜めから陽が射している』(2011年7月思潮社)は感じの良い詩集。あとがきに《現在の荒涼を正確に描く》とあるが、やや内向きな視線が気になる。三井葉子『灯色醗酵』(ひいろはっこうと読む)(2011年7月思潮社)は詩人の存在感が強すぎておそるおそる読むうちに《あんなに拘束がキライだった》のフレーズに出会い、距離が縮まった。詩人は自分の(生きた)時代に撤するときその真価が現れると感じた。

あせらず、日常の中から自分と世界をみつめて言葉を発しよう。




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