自由詩時評 第25回 有働薫

詩活動に晩節はあるか   有働薫

マスコミで評判の良いいわゆる著名人に、質問者が「晩節を汚す」という言葉がありますが、と問いかけている。テレビの画面で少し冗談めかして。はじめて耳にするような、記憶にあるようなと小国語辞典を引く。項目は「晩節」で、解釈は「晩年の節操。」なるほど例文として「―を汚す」がある。晩があるなら、朝も、昼もあるだろう、と頭の中で理屈をこねる。朝、昼、晩、節操を要求されてはかなわないな、と不満である。なぜ不満かと自問してみるに、それは私が「節」を外から押し付けられるものと思うからである。自分のことはじぶんで決めたい。「節」はじぶんの中にしかない。私が晩年に至っても抱き続けたい「節」は逆説的だが恋する気持ちである。いままでどおり、死ぬまで恋をしていよう。ばばあがなんだ、と言われようとも。

今回は谷口謙詩集『大江山』(2011年9月、土曜美術社出版販売刊)をまず挙げたい。和泉式部の娘、小式部内待に「大江山いくののみちのとおければまだふみもみずあまのはしだて」と詠まれた大江山を子どものときから眺めて暮らした詩人の、ご本人がおっしゃるには「最後の」詩集である。この詩人は長年地元の監察医を務めてこられた開業医で、お住まいの京丹後市大宮町一帯は往年の丹後ちりめんの産地である。ほとんどが住宅内に織機を入れた家内工業で生産されてきた。そして近年ちりめんの需要が衰え、仕事を失った人々の、櫛の歯を欠くような自死が頻発した。その遺体の検視に当たられてきたのが谷口さんである。谷口さんを支えたものの一つが、詩を書くことである。検視を題材にした詩集は8冊に及ぶ。退任されて、この詩集にはご自分とご家族の忘れがたい記憶が定着されている。集中ことに心に沁みた作品は「浦」。検診のため公民館に行かれた折の淡彩だ。このような谷口さんの晩節を、憧れと敬意を込め大切に読んでいく。牧田久未『林檎の記憶』(2011年9月、思潮社刊)は谷口さんと同じ京都の、こちらは市内の表舞台のひとの若やいだ華やかな詩である。テキスタイルデザイナーとして京都東京を掛け持って活躍される、実生活の生命感に溢れた「節」を見る。財部鳥子のエッセイ集『猫柳祭』(2011年8月、書肆山田刊)は副題にもあるように、室生犀星の満州旅行を題材にした詩集をめぐるエッセイで、読み出したらやめられない。これは太平洋戦争終結前後の大陸事情を身をもって経験された財部さんの文体の力なのだろう。江夏名枝『海は近い』(2011年8月、思潮社刊)。言葉は美しいが、独自性が感じられない。いわば詩を勉強した優等生のレポートという印象。「海は近い」でくくられた散文詩20篇はよくできている。この詩形に徹してほしかった。訳詩集J‐M.モルポワ『青の物語』(1999年4月、思潮社刊)は青について81篇の詩想で詩集1冊をつくりあげている。

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