自由詩時評 第35回 福田拓也

詩集『裸のメモ』(2011年9月30日、書肆山田)に収められた「『折口信夫会』講話――人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝ けり」というテクストの吉増剛造は、文学的テクストの力で、より具体的には折口信夫のテクストの力で、3月11日の大震災という言語を超える出来事に対峙しようとしている。3.11の大地震・大津波を折口の詩の立ち上がる一契機と見なし、折口の「阿彌陀像」から出発して3.11の大地震・大津波を「阿彌陀仏の巨きな足音」として言語化し解釈しつつ折口のテクストに大震災を予感し、津波に呑み込まれる一女性の聞いた何かにまで折口のテクストを経由して到達することによって、吉増は大地震・大津波という得体の知れない怪物的な出来事を言語化・象徴化し尽くし、そのことによって恐らくそれを無力化しようとしている。例えば、釜石を訪れた吉増は、「大津波に、まだ濡れて泣いているような地面」を前にして、明らかに折口に由来する「阿彌陀仏の巨きな足音」の変奏である「水の巨大な炎の足音」という言葉によって、またやはり折口の言葉の書き換えである「常世乃波の暴虐」という言葉によって、大地震・大津波を言語化・文学化し、解釈・理解し切ろうとしているかのようだ。「[……] 水の巨大な炎の足音が踏み荒らした、……もう〝他界の海底、……〟の怖るべきしずけさ、泣く声、……。まだ濡れているのがよく判る、……。これが、水の惑星の、……荒涼たる足音、……と、折口信夫に、(中略)〝とうとう、……〟常世乃波の暴虐が、……と、傍を歩く折口さんにも、今日、会場の方々にも語りかけている気がしていました。」

しかし、テクストからテクストへの差し向けの働きを網の目のように張り巡らし、それによって3.11の震災という未曽有の出来事を包囲して取り込んでその出来事性を無にしようとする強固な意志にもかかわらず、大地震・大津波の徹底した言語化・文学化の果てに、吉増は、折口のテクストでは言語化できないもの、解釈できないものに突き当る。まさに大地震そのもの、大津波そのものが言語化出来ぬものとして残る。吉増が、「休止点」、「折リ返シ」、「歌の休止」と呼ぶものは、実は言語化・象徴化出来ぬ大地震・大津波そのもののこの露出を意味しているのではないだろうか。

[……] シカシ、リクゼンタカタニ這入ッテ、シバラクシテ、ココガ休止点アルイヒハ折リ返シダ、……ト、イフ声ヲ聞イテ、引キ返シタトコロニ、アルヒハ、歌ノ休止、沈黙、……ソコニシカハジマラナイデアロウ、モウヒトツノ呼吸ヲキイタノダト思フ、……日(ヒ)の伴(トモ)ノ声ナノカ、……。自ヅト、〝この山道を行きし人あり〟という声が聞こえてきていた。皆様方ニ、……コンナメモヲ、スミマセン。本当ハ、歌イタイ、……ソノ詞書(シショウ)ト、トッテ下サッテモヨイノデショウ、……。ソシテ、〝フミシダカレテイロアタラシ、(踏みしだかれて色あたらし。)〟こうして、折口信夫のもっとも深い歌の休止が、……だな、……それが、ガレキ(……というのは、とってもシノビナイノダガ、……)、折り重なり、ミタコトもない宇宙の波模様と化している、イロ(色)とキズグチ(傷口)そして、とっても強い、フミニジラレテ、……そう、世界の血の色のようなものを、滲ませる、……そのシーンに、このメモは遭遇していた、……。

恐らく、「『折口信夫会』講話」というテクスト、のみならず『裸のメモ』という詩集の中心はここにある。この数行に「裸」に露呈した大地震そのものを中心として、この詩集は編まれているとすら言えるかもしれない。吉増はここで、折口に由来する「阿彌陀仏の巨きな足音」からやはり同じ折口の歌の「踏みしだかれて色あたらし」という言葉に導かれ、大地震・大津波の仕業を巨きな足によって「踏みしだ」くという方向で解釈し続けようとしている。しかし、「踏みしだかれて色あたらし」という言葉には、全く別の要素がある。それが、「歌の休止」であり、「ソコニシカハジマラナイデアロウ、モウヒトツノ呼吸」を生み出し得るある転換点、「休止点」、「折り返し」だ。つまり、吉増の引用する折口の「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」という歌の「踏みしだかれて」は「災厄」としての大地震・大津波の所業を意味するが、「色あたらし」は、大地震による新たな歌、新たな詩、新たな美の誕生を意味し得るだろう。吉増の言う通り、「災厄の光からその歌の小径がはじめられていた」のである。「そうして『海やまのあひだ』の巻頭に戻りますと、大正十三年、……ここで、はっきりと、折口信夫の心中の休止、中絶、中断が、……すさみきった心の、……災厄の光からその歌の小径がはじめられていたらしいことの呼吸(本当の、……)を少なくとも、わたくしは、初めて読み得たといえるのだと思います、……。つまり、それとは知らずに、「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」この巻頭の歌に深い歌の休止を感じていました、[……]。」

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