自由詩時評 第48回 小峰慎也

かわる

2012年2月25日
ちょっとメモ。「詩論へ」4号(首都大学東京都市教養学部都市教養学科人文社会系国際文化コース表象言語論分野内現代詩センター・制作。2012年2月29日発行)にのっている、瀬尾育生「ヘテロトポロギカ 4 純粋言語論/山村暮鳥と萩原朔太郎」を読んで、どうも釈然としない。

瀬尾は、ベンヤミンの用語「純粋言語」ということを援用して、「純粋言語」(事物からの語りかけ)⇔「人間の言語」という対立軸を想定する。たとえば、地震や津波、そういったもの(自然現象だけではない)が一気に出てくるということに対して、「人間の言語」では、それを整理して把握し、語ることができない(「純粋言語論」は2011年4月20日の講演がもとになっている)。そこで、人ができることは、事物や生物や無生物が一気に語りだす「純粋言語」に耳を傾けることだ、という。震災などの「純粋言語」の語り出しに対して、「人間の言語」でコントロールしようとする、たとえば、誰に責任があるだとか、原発を制御可能にするために技術を推し進めるだとか、脱原発だとか、自然科学的な知ですみずみまで把握しようとしたりだとか、そうして「人間の言語」で、ほとんどコントロールしきった状態になったとして、なお何か残る「いやな感じ」、いくらコントロールしきっていても、それは「人間の言語」の範囲内でのコントロールであって、その発想外のこと(「純粋言語」)は、つねに「人間の言語」の向こう側からやってくる。だから、「人間の言語」で組み伏せようとするのではなくて、「純粋言語」に耳をすますことが必要になってくる(「人間の言語」に切れ目を入れる必要がある)、そうした筋立てだ(瀬尾は「ヒューマニズム」の無効を指摘する)。

 何が釈然としないのか。まず事物・事態が語り出すということが理解できないんですね。存在を、人間の識別能力あるいは言語の分節能力と相関的に考える考え方に対して、「(ベンヤミンのいうことを要約していうと―引用者補足)そうではなくて、まず第一に、事物そのものが語り出しているのだ。それへの応答として、人間がそれらに名前を与えるのだ。それが人間の命名ということの本質だ、というのです。」として、「その順序を証明するのが「翻訳」ということです。」と続くわけだが、この前提が納得できない。ぼくは、この理屈がおかしな点は、「順序」という発想にあると思う。どちらが先、とかいうことではないのだ。人間中心に考える考え方に対して、事物が先なのだ、というからおかしなことになる。事物を先行させることで、「人間の言語」の価値を小さくみせようとする手つきを感じてしまう(それは、不自然だ)。

 ここで書かれている現状認識(「人間の言語」に対する過剰な信頼)に対して、ぼくは、そうだ、とたしかに説得される。いいと思うんだけど、「人間の言語」で事物を捉えるということ自体が「間違っている」、とまでいわれると抵抗がある(P143。「間違っている、とハイデガーは言っているのです」という書き方だが)。山村暮鳥と萩原朔太郎の対比についてもそうだ。ことばの不連続・断片化をしている暮鳥を、この場合、「人間の言語」に切れ目を入れている例として挙げて称揚し、リズムや筋の通ったことばづかいで書いている朔太郎を否定的に書かれると、抵抗感がある。「人間の言語」使っちゃだめなの?っていいたくなるのだ。

論じられている暮鳥にしてみたところで、「言葉に流れがある詩は、いわば人間の言語の内部で回転することができる。たとえそこにどんな不気味なものが描かれていても、言語そのものに切断がないから、外界から事物が直接に入り込んだりしない。事物は人間の言語の中に回収されるのです。それに対して暮鳥の詩は、いたるところに切断面があって、どこからどんな事物が入り込んでくるかわからない。」(「Ⅱ山村暮鳥と萩原朔太郎」P154)と書かれているけど、切断面から事物が入り込んでくるっていうのが、ほんとうに起こっているのか。暮鳥の詩だって、やっぱり「人間の言語」の一面ではないかと思ってしまう。「純粋言語」に耳を傾けるということは、「人間の言語」を排するということではなくて、結果的に、「人間の言語」のなまけもの的な習慣を変えたり、「人間の言語」のおごりを気づかせるような役目を果たすというふうに考えたらいけないのか。

瀬尾がこの二つの文章で指摘していることは、とても重要だとは思う。しかし、それは「現状を自覚する」というレベルでは納得できるものの、瀬尾の示す「その先」には、疑問がある。「人間」がだめだから「事物」へっていう転倒が起こっている気がするし、不毛な他者論の変奏に思えて、どこか「いやな感じ」がするのだ。じゃあ、どうしたらいいのか、結局それをいえないところにいらだたしさを感じもするが。

3月8日
高橋源一郎の「ニッポンの小説・第三部」(「文學界」2012年4月号)の第1回目は「読めない」と題して、「あの日」以来、なにをどう読んでいいのか、まるでわからなくなった、ということが書かれている。

と書き出してみたものの、読み返してみたら、この「ニッポンの小説・第三部」の書き方は、いま、ぼくが書こうとしたことと違うことが問題になってしまっている。

この文章では、大げさな身振りで、「読めない」「ぼく」が、読む特訓をするもようが書かれていく。だから(というのは、大げさな身振りだからということ)、「ぼく」が「読めない」というのがとてもうそっぽい。高橋源一郎は、「あの日」以前から、ときおり読めない・わからないふりをしてきた。この文章もその「ふり」とかわらないように思える。そもそも、特訓に用いられている田中慎弥の「共喰い」の文章が、「あの日」が来ようとそれ以前だろうと、高橋源一郎の揶揄の対象としては動かない、と思われるものなので、この「読めない」は信用できない。高橋源一郎が、以前絶賛していた文章が、「あの日」以来読めなくなったとして、それを例示してもらえれば意味があると思うが。

なので、「ニッポンの小説・第三部」はおいておいて、去年の萩原朔太郎賞の選評(「新潮」2011年11月号。『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』河出書房新社、2012年2月28日、所収)から引くと、

いうまでもないことだが、3月11日以降は、それ以前と同じように「読む」ことも「書く」ことも難しくなった。以前は面白かったもの、面白かったはずのものが、そうは感じられない。以前なら楽に書けていたことが書けない。それとは逆に、以前には無視していたものが気持ちにすっと入ってくる。あるいは、ふだん通りに書いているつもりでも、書き方が変わっている。それは、こちらの問題でもあり、また同時に、ぼくたちが生きているこの世界の問題でもあるのだろう。

ということ。実感としてあるのだろう。この「感じ」に異をとなえるつもりはない。だが、ぼくにはまだ、その「感じ」が訪れていない。ぼくが極度に鈍い。その可能性がもっとも高いのだが、ほんとうにみなさん、そんな「感じ」を持っているのかな。そう、おいておくといったけど、「ニッポンの小説・第三部」で、高橋源一郎が書いている「読めない」動作なんだが、それって、ぼくの場合でいえば、以前からそうだし、それ以外の読み方ができたときなどない、だけど、そういう話すると、ぼく個人の個別の話になってしまうか、最近もとくにばかにされているのだが、普通の読解力がない。というような話に。

3月22日
 久谷雉「おまわりさん、早く来てください」(「別冊 詩の発見」第11号、2012年3月22日)。久谷雉になにが起こったのか。

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