自由詩時評 第57回 野村喜和夫

詩と批評について語ろうと思う。詩は市場が小さいので、多くは詩人が批評家をも兼ねることになるが、それはたんに間に合わせ的な副業ということではない。詩に近代性が刻印されて以来、詩と批評は不可分に結ばれてきた。なぜなら、いうまでもなく詩は言語でつくられるが、詩の近代性とは、その言語そのものを問うことでもあるからだ。それまで夢中になって踊っていた人が、やがてその踊りを可能にしている自分の身体そのものを意識し始める、という感じだろうか。

それゆえ、批評は詩人によってこそ書かれるべきなのかもしれない。ふつうの意味での批評を書かない詩人でも、その詩に批評性を内在させてきたのである。たとえば谷川俊太郎がそうだ。そしてこのたび、その谷川俊太郎について論じた四元康祐の『谷川俊太郎学』(思潮社)は、詩人によって書かれるべき批評の、近年まれにみるめざましい成果のひとつであろう。

なによりも「論」ではなく「学」であることに注意したい。実は詩の世界で書かれている批評の大半は状況論であり、作品そのものは置き去りにされてしまうことが多い。もちろん、時代状況と切り結ばない詩の行為というのはありえないから、いきおい詩論は両者のかかわり、とくにその弁証法的な相克を論じることになる。だがその度が過ぎると、まるで作品は時代を映す鏡の役割しか果たしていないかのような扱いとなる。そのうえ、現代詩を特徴づけてきた闘争的なスタイルがそれに拍車をかける。かくして、詩論のためにする詩論、ポレミックであることをアプリオリに前提とするような詩論が大半を占めることになるのである。

おそらく四元は、そうした傾向への批判の意味もこめて「学」としたのだ。じっさい、井筒俊彦の言語哲学を援用しつつ、谷川俊太郎の詩の行為の核心を、「本来分節化が不可能なはずの絶対無文節──それは同時に言語の母胎でもあるのだが──を言語化する」試みと捉えるあたりは、この国民詩人をはじめて世界文学的視野へと解き放つ意味深いページであるといえよう。

しかしそれだけではない。「学」の「学」たるゆえんは、四元みずから「私にとっての「詩」とは、谷川作品の総体に他ならなかった」というように、対象への全的な没入である。批評とは偏愛を語ってこそ生彩を帯びるのであり、そうしてそれは、詩人四元康祐の詩作にも必ずやフィードバックされてゆくであろう。

もう一冊、細見和之&山田兼士『対論 この詩集を読め2008〜2011』も挙げておこう。対話形式の詩の時評というと、数年前に刊行された大冊、瀬尾育生&稲川方人『詩的間伐』を思い起こす。重厚かつスリリングな書物ではあったが、ある種の原理主義的な重苦しさがあり、いいかえれば、詩における理念を追求するあまり、それがかえってひとつの抑圧の装置としてはたらくというパラドックスが感じられた。対照的に本書の対話者は、実に慎ましくかまえている。あるいは『詩的間伐』を意識したか。いや、意識しないはずはあるまい。イスラエルの詩人イェフダ・アミハイの言葉を引きながら、「絶対的に正しい場所というのは人が暮らしたり花が咲いたりすることはない」と対話者自身(細見)が述べているのだから。「僕はね、詩とは何かという原理を求めるよりは、何が詩なのかというその機能を問いたい」と、もうひとりの山田も、方法において演繹よりは帰納を強調している。

取り上げられた詩集は、入沢康夫『かりのそらね』から和合亮一『詩の礫』まで、ここ数年のあいだに刊行された14冊。詩の現在を代表し、詩壇内外の話題にもなった詩集も多く含む。ただ、もともとが大阪から発信されている総合詩誌『びーぐる』に連載という事情もあってか、なかには「地理的な党派性」(細見)を感じさせる詩集の選択や評言もあるが、これは誰がやってもなんらかの政治性は出るであろうから、それをあげつらっても仕方あるまい。むしろ、ジャンル外の中島みゆきや「四季」派から出発した超ベテラン杉山平一をも収めることで、共時的にも通時的にも、詩を狭い現代詩の枠から解き放とうとする本書の意図を、まずは素直に評価すべきだろう。

各章について紹介する余裕はないが、たとえば入沢康夫『かりのそらね』について、「二重三重に決して作者そのものではない、という枠組みのなかで書いている。だけど私はそのことをとおして逆に、実体的な入沢さん自身が強く出てきているような気がするんですよ」という細見の指摘が面白い。彼はたぶん、実践が理論を裏切るそのねじれの局面にかえってスリリングな文学の出来事があるという意味深いパラドックスを嗅ぎつけているのであろう。また、若手の岸田将幸の『〈孤絶─角〉』について、「ある意味、純粋詩ですね」と述べる山田の評言も、なかなかに言い得て妙だ。

総じて、細見の突っ込みが鋭く、山田はそれを柔らかく受け止めつつ、あらためて対象詩集を、より開かれた読みの方へと解き放つ、という印象だろうか。たとえば、和合亮一『詩の礫』をめぐって、「和合さんの記述がいわゆる「詩」らしきものに向かいながら、むしろけっして詩的ではない日常のほうに引き戻されてゆくところに大事なポイントがあると思える」と細見が核心をつけば、「ということは詩の不可能性の露出にこそ意味がある、ということですね。その不可能な地点から、あらためて詩が生まれる可能性に、ぼくは期待したい」と山田は応じる。この幅がいい。そして、両者いずれも、自分たちの批評の場に原理主義的なリゴリスムは持ち込まないという姿勢において一貫している。あくまでもゆるく構え、右へも左へも自在に反応できるという、いわば遊撃的なスタイル。それが奏功して、闊達かつ多方向へと開かれた討議の場をつくり出しているといえる。そう、ここにひとつの、あらまほしき批評的対話のオルタナティブが誕生したのである。

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