自由詩時評 第65回 野村喜和夫

 長らく言語表現の先端を担いつづけてきた総合詩誌「現代詩手帖」にあって、さらに一段と刺激に満ちたページを提供しているのが新人作品欄である。それは未来の詩人を夢見る人たちが、既成の枠にとらわれることなく、自由で清新な作品を投稿しているからだが、ここ数年のその欄で頭角をあらわした新鋭が、この春から夏にかけて、相次いで詩集を刊行した。金子鉄夫、白鳥央堂、榎本櫻湖。さらに、本稿には間に合わないが、ブリングルと望月遊馬の詩集の刊行も予告されている。

 こうなるともう事件である。3・11以降において、その3・11が強いる問題機制(いわく、いまこそ言葉の無力さを思い知らなければならない、あるいは逆に、いまこそ意味のある言葉を発信すべきである、などなど)にもとらわれないという意味において、最初かつ最大の詩の事件である。上に名前をあげた新鋭に、暁方ミセイや文月悠光を加えてもいいだろう。彼らが競い合って2010年代の詩の世界をスリリングで豊かなものにしていってほしいと思うが、ところで、彼らに10年代詩としてくくることができる共通項はあるのかないのか。あるならばそれを浮かび上がらせるためにも、以下、個々の詩集についてみていこう。

 まず、金子鉄夫『ちちこわし』(思潮社)。名前にふたつも金属名が入っているが、その詩風はむしろ、語る猛禽ともいうべきしなやかな力をそなえている。どこか言語の暴力性を標榜した1960年代詩人の再来を思わせながら、しかしもちろん、2010年代初頭のいまならではのあたらしさに充ち満ちてもいて、それは、明るい絶望という語義矛盾を詩の空間においてどこまでも生き抜こうとする意志、とでもいおうか。

 タイトルの『ちちこわし』は、父壊しであろうか、父恐しであろうか。それとも、乳壊しであろうか、乳恐しであろうか。前者ならエディプス・コンプレックスをも巻き込んでの、なにかしら父性的なもの、制度的なものへの反抗であり、後者ならエロティシズムをうっすらとふまえたうえでの、なにかしら母性的なるものの棄却である。いや、たぶんその両方だ。「父」と「乳」の重層した厚みが問題となっているのである。

 そうしてそこから、別様の得体の知れない肉体性を獲得しようと苦闘しているひとりの青年の姿が浮かび上がってくる。「こうもんから煮えたテニスコートのにおい」「ひと喰うゆうぐれ」「びよーんびよーん笑って笑って」「うねうねでうねうね」——これら、猥雑で意味不明で暴力的なフレーズは、取り澄ました日常の言語を打ち「こわし」ながら、しかしどこかせつなく、やるせなく、現代日本の路上をよじれつつダンスしていくかのようだ。

 つぎに、白鳥央堂『晴れる空よりもうつくしいもの』(思潮社)。言葉の繰り出し方がじつに精妙かつ多彩で、つまりこちらは、70年代詩の微分的な抒情言語をいまに伝える雰囲気がある。あたらしさはここでは、そうした詩の空間を引き裂くメタレベルの介入が、意外にも荒々しく果たされる面に求められよう。そこにはなにかしら言語を保持してしまったことへの怒りの情動のようなものを感じる。

 とりわけ印象的なのは、「妹」や「幼年」をめぐる物語の喚起だが、それを隠喩的に語る美しい言葉(「妹の喝采する速度が/ほとんど星を身籠もる力と釣り合うとき」)と、その連なりを断つアイロニーの言葉(「いびきかいて走るバス落とし物ガスマスク草笛/新小岩船戸沢渡六角牛馬簾ソラミミネリーザックス」)とが、詩集全体を対位法のように織り成してゆく。

 ふたりの詩壇への登場を、何はともあれ祝したい。しかも、すでにみたように、一方では換喩的なひろがりにおいて人称を超えた身体が浮かび上がり、他方では隠喩的な奥行きにおいて濃密な「私」の物語のかけらが反射しあう。この幅──いってみればそれは、ランボーとマラルメの幅である──がいい。そこに、まだまだ捨てたものではない現代詩の可能性そのものを測ることができるのである。

 だとすれば、もうひとりの新鋭、榎本櫻湖は、さしずめロートレアモンといったところか。その『増殖する眼球にまたがって』(思潮社)。この新鋭は、すでにして修辞を駆使した驚くべき言語態を繰り広げ、そのうえにまた博学で、源氏物語からそれこそロートレアモンにいたるまで作中に取り込み、さらにはなんとあの般若心経をもパロディー風に書き換えてしまう。しかし悪意は感じられず、隅々まで行き渡った諧謔の精神はむしろすがすがしいくらいである。

 それでも、底を流れているのは、金子や白鳥の場合と同じ反抗のスタンス、もしくは怒りの情動ではあるまいか。ただし、前2者の怒りにはエロス的身体が交錯していたが、榎本の場合は、もはや男やら女やらの〈私〉には還元できないある特異な〈個体〉の居場所が問題なのだ。世界はそれを許容しない。ならば、「世界の総体は悉く文字のみによってなりたっている」と思いなして、そこを縦横に動きまわる一個の文学機械ともいうべき存在に変化を遂げようというのである。

 このようにみてくると、あらわれはじめた10年代詩のひとつの特徴は、きわめてソフィストケートされたかたちでの反抗と怒りの言語化であるかもしれない。経済の停滞や社会の劣化につれて、若い人の生存の条件はどんどんきびしくなっている。3・11の打撃がそれに拍車をかけて、もはやかつてのように未来を思い描くことは困難である。にもかかわらず、詩の言語は未来から到来する。この引き裂かれを若い詩人たちはいま生きようと──あるいは生かされようと──しているのではないか。

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