公園のまわりの道
わたしの住んでいるのは東京郊外の住宅地だけれども、川の水源地となる池の周囲を公園にしたような場所というのがいくつかある。公園というのはおおやけにハレの場所として認定を受けた土地であり、所有権なり経済活動なりあるいは夫婦生活といった人生のシリアスな現実からとりあえず解放された市民のための遊び場であり、そこには一定限度の精神的自由が与えられている。一方、公園のまわりに広がる住宅地のほうは土地建物が登記のもとに私有されているからそこの土地の持ち主以外がみだりに侵入することは不法であり逮捕拘束されかねないというシリアスな権利関係にしばられている。というよりそこには、はてしない「日常」を暮らすことが保証される場としてのつまらなさ、が漂っている。風光明媚な公園のすぐ向かいの地であるということでこれら住宅地のイメージ価値は上昇し、かつまた居間の窓から春夏秋冬の四季の折々を通じて風に揺れる森の木々などを借景として見続けることができるので心和むマイホームとして購入するには最適であると思われるけれども、実際に住んでみると水の傍だからいつも湿気が高くなおかつ豊富な自然に由来する刺す虫の類が屋内に侵入してくるので、あなたが思うほどすてきな場所ではないかもしれないよ、と私は地元の友人に釘を刺されたことがある。
公園と住宅地は多くの場合、細い舗装道路の公道で仕切られていて、そこをジョギングしたり犬の散歩をしたりする人たちの姿が目に付く。このような公園を囲繞する公道に、私は一種特殊な感情を抱いている。雨でぬかるんでいるときなどには公園の中の土の道を散歩するかわりとして、私たちはこの公道を歩くことによって十分に公園の風景を楽しむことができる。公園の木々は公道の上に枝を伸ばし、昼まだ暗いような幽遠な空気をかもしだしている。大気には木々から放出されるフィトンチッドの香気が充満し、それが私達の精神をなだめすかし、私達に自分を取り戻させるような力を発揮することは十分可能である。しかしこの道は一方ではぶっぶーと警笛を鳴らしながら自動車が通行してくる一般の車道をも兼ねており、交通標識ならびに交通法規の存在によってそこでの行動には一定の制限が加えられる。つまり私達は、公園の雰囲気を楽しみながら公道を通行することは合法であるけれども、公園の中のように自由にふるまうことは禁止されており、バトミントンや高歌放吟もできなければお出かけシートを地面に広げて花見をすることなどは、道路交通法その他の交通法規によって許可されていないと思われる。公園周囲の公道はつまり大げさに言えば「ハレ」と「ケ」、「非日常」と「日常」、あるいは「遊び」と「仕事」の境界領域に存在し、双方の属性を部分的には共有するけれども、しかしどちらにも帰属することはできないという拗ねた感じをかもしだしている。
詩はそもそもはずかしいものである、という思いが私なんかのばあいは色濃い。それは、この不安定な境界的な線をかけぬけるものが詩ではないか、という考えがあるからで、つねに詩人の存在の意義は疑問にさらされつづけ、不断の問いの果てに思いがけないことが現出することこそをよしとしたいからである。予定調和的に詩作品をいくらたくさん生産することができたとしても、そこに思いがけないことが付け加われなければ質的な更新というものはほとんど得られず、おけいこごとの範疇に終わるものであろう。あなたの詩がもしはずかしくないというのなら、それはあなたがおけいこごとに従事しており、あなたの詩の領土が他者によるコノテーションによって囲繞されているからである。そこから突出することがなければ、詩における発見というものは得られない。
先日行われた「トルタ」グループのイベント「飛ばない本」で、佐次田哲氏とおっしゃる方が電子詩作プログラム「詩作くん」を発表するのを見に行った。
「詩作くん」は詩の自動生成プログラムです。
10万行の詩をわずか数秒で生み出す旺盛な制作力を誇ります。
残念ながらこの文章は詩作くんが書いたものではありませんが。
詩作くんと遊んでみたい方、
詩作のアウトソーシングを予定されている方、
ぜひ一度お立ち寄りください。
というのがこのイベントの惹句であったが、ギャラリーのテーブルの上に一台のコンピュータが置かれ、オペレータの操作によって次々と詩が生産され、プリントアウトされる。要するにそれは、適当に選ばれた詩語らしきものを並べ替えたものに、適当に句読点が挿入され、適当に行替えが挿入され、「詩のようなもの」を量産しつづけるというコンピュータプログラムであった。このような自動詩作プログラムは実は八十年代くらいにも作られたのを私はきいたことがあるが、いずれにせよこれは、詩の現状に対する佐次田氏の痛烈な皮肉であるにちがいないと私は受け取った。氏はきっと、投稿欄を含めた批評の装置というものが、ある定型としての「詩のようなもの」を精力的に量産しつづけるための教育機関と化し、詩人の作物をある種の既存の型へと収斂させようとしているということを批判したいのではないか。「詩作くん」は詩人たる自分の存在意義に疑いをもたず、すごく堂々としていて、すこしもはずかしくないように見えるが、そのかわり彼が生み出す詩はどうにもパターンが単調であり、A4の紙に縦書きでずらずらと長短の行が、多少の句読点の挿入をフレーバーとしながら並べられ、一行あきの挿入すら見受けられない。どの詩もそういうパターンをとっている。どうにも文字面が汚く、ぱっと見た印象があまりよくないし、読んでもほとんど面白くなかった。こんな代物に「詩作のアウトソーシング」を本気でみんなが頼みはじめたとしたら、それこそ文化の破滅であろう。今後もし、この詩作ロボットに、あらたな詩の「型」を次々と創生し提案するような機能をつけくわえることができれば、それはたしかに新しい詩へのヒントとなりえるかもしれないと思った。
詩作ロボットともっとも対照的な位置にあると思われる詩人として、松岡政則氏の名前をあげたい。氏はまず前作『ちかしい喉』(思潮社)において、中国地方の寒村へのみずからの帰郷を描いたが、これは強烈な絶唱であり、ルサンチマンとカタルシスに満ち満ちた詩集であった。
泪はながれなかったけど
もっと深いところのものがながれた
地ぞこから突き上げてくるどす黯いみどり(「橋がくる」)
このような詩において松岡氏は、自意識の底をぶちぬくことによって公園の真ん中に立つような普遍性を獲得することができていたと思う。『ちかしい喉』の詩は一人語りの手法で書かれており、それは短歌の「私」と似て、書かれていない主語はすべて「私」だという前提の上に成立しているような一人称の文学だった。あくまでも構造的に分析すると、たとえば「泪はながれなかった」と松岡氏が書くとき、それは「私の泪はながれなかった」という意味であり、そこには松岡氏の帰郷という事象における、予期しえなかったできごとの写生がなされている。ところが氏の想像を越えて故郷の「みどり」は「どす黯」かったので、当然流れるであろう「泪」すら流れなかった、というように氏は自分自身の姿を描写している。そこにおいては、松岡氏がどういう人であるかというようなことよりも、松岡氏の遭遇した世界のあらたな切断面への畏れが、なまなましい形で現出している。
近作『口福台灣食堂紀行』(思潮社)においても、阿部嘉昭氏が高く評価するように、少数民族や植民地時代の痕跡にふれるというような周縁的人権性への親和において、松岡氏らしさは健在であるということはできよう。しかし、その親和そのものはクレオール文学などの世界的な文学潮流にあまりにもつきすぎているという事実、あるいは開高健や金子光晴といった過去の日本作家たちの描いたアジアの猥雑性に比して松岡氏の台湾の「口福」の描き方はまだまだ骨太さが不足しているという事実に松岡氏はおそらく自分で気づいてしまっており、そのことが「二〇年も詩を書いて一篇もたいしたのがない。/ひとのもたまげたことはなかった詩はもっとすごいものだ」(「蚋」)「わかっている/詩にあんなことをさせてはならない」(「バス停のみえる場所」)「ことばの息/ことばの仕草/その震えだけをしんじている/艸でいくことにする」(「空をはじめる」)などと、松岡氏の詩をすこし内的に屈折させ、またその読者を詩の関係のせまい範囲に限定するというようなおこないへと松岡氏を導いている。『ちかしい喉』においてはみごとにその底がぶちぬかれて普遍化されていた自意識が、海外に出て旅の人となったことによって、あるいは『ちかしい喉』の作者となり詩壇において評価されるということを経験してしまったことによって、「自分とはどのような作家か」とのメタ的な問いへとを収斂しつつある兆候がみうけられるからだ。そのことによって、松岡氏の詩は文学からメタ文学へとランクアップされ、同時に公園の中から周縁の道路へと放り出され、そこで立ち往生する。
土の眼よ。
勁艸の者らよ。
そんなふうにみないでくれ。
どこにも帰属できないただの拗ね者、
あいさつになりたいだけの未熟な旅師だ。(「フォルモサ」部分)
このやるせない不全感。それは詩人が自分の居場所を見失ったことによるものであって、読むものに強烈な印象をかきたてる。その立往生こそは言ってみれば「詩作くん」にはありえない、きわめて人間的な立往生であろう。
現在開催中の川崎市岡本太郎美術館の「記憶の島――岡本太郎と宮本常一が撮った日本」展には、このふたりが同時期に撮影したオシラサマやイザイホーなどの民俗写真が豊富に展示されている。在野の民俗学徒であった宮本のやわらかいまなざしに反して、やはり民俗に深い関心を示した岡本のカメラワークはシャープで無駄がなく、対象の美をつかまえるのにせっかちである。だが二人の写真からは共通して、民俗や芸能というものの本質が、死、死、死……、といわんばかりに世界に満ち満ちる死穢にいかに親しいものであって、そこから必然的に演繹される「霊性」の要請にほかならないものなのか、ということがひしひしと胸にせまってくる。死というわけのわからない異界の存在は、宗教者などでない一般の民衆にとっても、民俗や芸能を介さなければ決して受け容れることはできない恐怖なのだ。そして「太陽の塔」や「芸術は爆発だ!」などに象徴される底抜けにあかるい岡本太郎の生への賛歌が、実はこれらの入念なフィールドワークを経たうえでの、現代美術のあり方への強力な解答であったことが胸にせまってくる。岡本太郎は、死穢にあらがうものとしての芸能の姿を、ドライで暴力的な独自の形象へと積極的に昇華することによって、過激な現代美術の未来を自らきりひらいていったのだ。
松岡氏のいう「どこにも帰属できないただの拗ね者」こそが、長い間ずっと、芸能を担うに値するものだったのは、ほぼ間違いない。『ちかしい喉』が「現代詩」の外から「現代詩」にせまっていく作品だったとして、そして『口福台灣食堂紀行』が「現代詩」の中から「現代詩」にせまっていく作品だったとしても、いずれにせよ現代詩は、遅かれ早かれ、そのインテリ的な外被を取りさって、芸能的本質にむかって解体されていくほかはないところまで来ている。松岡氏はこの黄色い詩集で軽いジャブを現代詩人たちに与えてくれているけれども、詩を書いてきたものとしては、ほんらい松岡氏の文学は、そんなところにとまどう必要はまったくなかったのではないか、などと反撥したくなるところもある。しかし現代詩というものの拗ね方は、そもそも松岡氏の芸能者としての拗ね方にとてもよく似ている。ならば、これでよいのか――、という気持ちにもなってくるのだが。