戦後俳句を読む(19 – 2) 赤尾兜子の句【テーマ:場末、ならびに海辺】/仲寒蝉

テーマ:場末、ならびに海辺

テーマ解説

兜子の俳句を理解しようとすれば初期の『蛇』『虚像』の頃の所謂前衛俳句、難解俳句を避けて通る訳にはいかない。後年の俳句に魅力がないと言っているのではない。だが兜子の代表句からこの時代のものを除いたら骨抜き同然であろう。彼が最も真剣に俳句と格闘し、最も輝いていた時代と考えていい。

兜子のような俳句が作りたくても作れない筆者はせめて彼がどのようにしてこういう俳句を作るに到ったのか、その秘密の一端でいいから掴みたいと思ってきた。実際にはとてつもない試みだと今でも思っている。しかし、今では兜子の俳句を知ることが戦後という時代、戦後俳句そのものを知ることにつながるという確信を得た。戦後は筆者自身が駆け抜けた時代であり、筆者自身のアイデンティティの拠り所でもある。だから無謀かもしれないが兜子の俳句への体当たりを続けて行きたい。

その手掛かりとして『蛇』『虚像』の所謂難解俳句によく登場する場所、背景、対象としての「場末、ならびに海辺」に注目した。兜子は兵庫県の片田舎に生れ育ったが大学時代以降は京都、大阪、神戸という都会の生活者であった。ただ当時の都会は現在のように垢抜けた町ではなく、もっとアジア的な混沌と活力に満ちた場所であり、謂わば町そのものが場末であった。このエネルギーこそが日本の高度成長を支えたのだろう。兜子の俳句も明らかにこの都会になろうとする場末からエネルギーを得ている。また海辺は兜子が生まれた瀬戸内海沿いの村、網干に通じている。謂わば彼の存在のルーツなのである。

今後しばらくはこの2つの切り口で主として前衛俳句、難解俳句と言われた時代の兜子の俳句を読み進めていきたい。

【本題】

場末の木椅子にちぢれ毛絡ませ記者ら酔う   『蛇』

この句は恐らく昭和31年作。恐らくと書いたのは俳誌「坂」の初出に当たることが出来なかったためである。俳句文学館に収蔵されている「坂」は昭和31年4・5月号が最初で次が昭和32年新年号、同年2・3月号、昭和33年10月号と続く。しかもこの昭和33年10月号には通し番号の(27)が振ってあるから少なくとも「坂」創刊の昭和30年からこの号に到るまでの23冊が俳句文学館には収蔵されていない。『蛇』の「坂(昭和30年~34年)の章に含まれる掲出句や「音楽漂う」等の合計140句はこの「坂」創刊号から29号(30号のものが2句だけ混じるが基本的にこの号以降は『虚像』所収)までに発表された俳句ばかりと思われる。というのは昭和25年に「火山系」が廃刊となってからは拠るべき俳誌を失い、昭和28年にささやかな「いちまいの手帖」を発刊、それが発展したものが「坂」だったのだ。だから当時の兜子の句はすべて「坂」にだけ発表された。「坂」は前衛作家赤尾兜子を醸成した貴重な酒蔵であったと言える。

さて掲出句に戻ろう。いきなり「場末」である。ただ直接「場末」という語の出てくる俳句はこれくらいで同章の他の句は匂わせる程度であるが。そもそも場末とは町はずれ、都会の中心から外れたところ、であるから一応は都会の一部なのだ。安定期でなく成長しつつある都会では中心なんてその時の勢いでいくらでも移り変わるから、つまりは町全体が場末的なのである。敗戦直後の東京も大阪もこういう状態であったと言える。

全句集の年譜によると昭和24年京都大学を卒業した兜子は帰郷していったん兵庫県庁社会教育課に勤務し神戸市垂水区に仮寓する。しかし翌25年には毎日新聞編集局に入社、神戸支局勤務となり神戸市須磨区板橋へ移転している。このあたりの事情はよく分らない。県庁というかたい職場をどうして辞めたのか、公務員なら生活が安定していていいではないか。しかしそれこそが兜子の性に合わなかったのではなかろうか。いずれにせよ兜子は新聞記者になった。「ブンヤ」などと揶揄されることもある職業の方を選んだ形となった。

この句の「記者ら」の中に若き日の兜子も混じっていたのだろう。就職後6年経っているのでもう駆け出しとは言えないがまだベテランの域にも達していない。当時の兜子の写真を見るとポマードか何かで撫でつけたようなきちんとした髪で決して「ちぢれ毛」とは言えない。これには同僚の誰かモデルがいたのかもしれない。木椅子に寄りかかりながら酒を飲んでいる記者達、木と木の隙間にちぢれ毛が絡まって抜けたりしている、実にリアルだ。それでもこれを「写生」と言われるとどこか抵抗を感じる(もちろん兜子はそう言われることを欲しなかったろう)。句自体が身もだえするように伝統的な「写生」という言葉に反抗している。それは8-8-5という定型からかなりはみ出したリズムからそう感じるのだ。定型に収めようと思えば「場末なる椅子にもたれて記者ら酔う」とでもできたろう。これなら詠まれる対象が新しい時代の息吹を感じさせるというだけで立派に伝統俳句の範疇に入ってしまいそうだ。

兜子は何故、内容的には決して難解でも前衛的でもないこの句を詠んだのだろう。記者として生き生きと働いている己れの姿を留めておきたいと思ったからか。それもあったろう。だがテーマ解説で述べたように「場末」という場所から発するエネルギーそのものを彼は愛したのではなかろうか。だからこそ何回も繰り返し場末の句を詠んだのだ。記者が出てくる句としては他に

寒気蹴立つ一身盾に屈背(くぐせ)記者
記者ら突込む鉄傘朝の林檎満ち
煉瓦の肉厚き月明疲れる記者
記者の朝ちぎれ靴噴く一刷(はけ)の血

などがある。どれも懸命に働く記者を活写していていじらしく思われてくる。これらは若き日の兜子の自画像と言える。

以前この稿で「かなりの細部描写であるのに木椅子の置かれた場所が屋内なのか屋外なのか不明なので記者達は宇宙空間のどこかにでもいるような無重力感がある」と書いたがこの空間こそが「場末」なのだ。8-8-5のリズム、細部描写を詰め込んだ感のあるこの句こそ「場末」のエネルギーを体現していると言えまいか。当時の伝統俳句系の写生句との最も大きな違いは、このはちきれんばかりのエネルギーであったと思うのだ。大人しく納まるものではないぞ、という反逆精神、やんちゃぶりがこの句の隅々から発しているではないか。

戦後俳句を読む(19 – 2) 目次

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