戦後俳句を読む (21 – 1) ―「老」を読むー 近木圭乃介の句 / 藤田踏青

失イツクシ。蝶残ル

平成6年の「層雲自由律2000年句集」(注①)所収の作品である。この年には圭之介は82歳になっており、既に老境に入っている。失ったものは何か、自己の人生に於けるものか、現存在としての眼前の状況か、それともこの世界そのものへの洞察か。色々と想像できるが、そこにはハイデッガーの「現存在」の存在構造としての時間性を認める事ができる。掲句の真ん中に置かれた句読点は、上句の時間性と下句の現存在を示すものであると共に、時間という一般的には「過去・現在・未来」という不可逆的方向性を持つという認識への切断をも意味していると考える。残った蝶は現存在であると共に未来をも示唆しており、更に失われた過去へも回帰してゆくものであるから。つまり、ハイデッガーの述べている「根源的な時間とはそれ自体で存在するものではなく、現在から過去や未来を開示して時間というものを生み出す働きのようなものである。また現在もそれ自体で生起するのではなく、『死へ臨む存在』としての我々が行動する(あるいはしない)時に立ち現われるものである。」(注②)という事に通じるものがある。その時間性に関する句をあげてみよう。

日付けのない暦背負って逃亡しようか   平成1年作   注③
月炎える 私未来図どうあろうと     平成3年作   注③
ひとり神の方を見ていたが 暗くなった  平成14年作
過去の破片に 居場所はなかった     平成16年作
取除くことは ここ数日の一行      平成17年作

そこに過去・現在・未来が均質的に続いてはいない。そして晩年に至る程、過去から遠ざかろうとすることも「老」に対応する方法論の一つかもしれない。それは「死へ臨む存在」への傾斜とそれによって作り出された空間へと集約されてゆくようだ。

生の裏に球体の小さな翳り   平成13年作
そら 一滴           平成16年作

ひとつ椅子に残る 存在    平成16年作

これら個としての存在論的なあり方と地球、宇宙という存在的なあり方との対比に無時間性も視る事ができよう。さらにこの様な思いは下記の詩の中で既に用意されてもいた。

「三秒あれば」抜       昭和27年作  注④
三秒あれば
コップの水を土に捨て
中に宇宙を入れることも
出来る

この詩はまさしく後年の句「宙 一滴」と対をなすものであろう。

最後に平成21年に97歳で没するまでの最晩年の句を掲げてみよう。

指先 一つの生 美もありそう      (94歳)  平成18年作
己れの記憶の中で笑った         (94歳)  平成18年作
己れは己れへ消えるため 風むきえらぶ  (95歳)  平成19年作
おのれの風よ。今の笑いも昔のものよ   (95歳)  平成19年作

ここに存在的なあり方ではない、存在論的なあり方が提示されているようにも思えるのだが。


注①「層雲自由律2000年句集」 合同句集 層雲自由律の会  平成12年刊

注②「存在と時間」 マルテイン・ハイデッガー  岩波文庫、ちくま学芸文庫

注③「層雲自由律90年作品史」 層雲自由律の会  平成16年刊

注④「近木圭之介詩抄」 私家版  昭和60年刊

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