戦後俳句を読む(26 – 1)近木圭之介の句【テーマ:日】/藤田踏青

言葉のない日 日没とパンがあれば               注①

日とは太陽であり時間でもあり特定の一日でもある。掲句では上句で一日を、下句で夕陽を示している。この作句時の平成5年に圭之介は既に81歳になっており、時折り娘さんが世話の為に来る以外は一人で生活している事が多かったようである。日とは日の出から日没までの時間でもあり、誰ひとり訪れる事もない言葉のない一日でもあったろう。しかし日没は必ずその日そのものを閉じてくれるし、老詩人にとっては少しのパンと珈琲があれば充分であったのか、静かな心境である。一字空白は負と正の自意識の転換点でもあり、抽象的な覚知から具体的な覚知へ移行する時間的な空間をも示しているようだ。

このような晩年の日没、夕陽への静かな眼差しと対比されるのが次の様な句である。

身の内 神経が一本赫ツと夕日す      昭和41年     注②
犬 誰にも呼ばれず赫ツと落日       昭和54年      々
耳の形が夕日の形が 悪魔を吐く      平成3年

前二句の赫ツとした夕日や落日には、孤高を持するような燃えあがる反抗心と共に痛々しい側面もみられ、シーンとしての一断面が提示されている。そして三句目の耳の形は夕日の形のように不条理、不定形な感覚の下に自他共の目前に悪魔そのものを見出しているかの如きである。

日を太陽とした句を見てみよう。

へんに哀しい街だ 人と太陽の匂い    平成4年      注③
混沌の街 位置づけられた太陽      平成11年     注③
果実と太陽の酸味もつ思慕か       平成11年

これ等の句では、街というものは太陽の下に発酵してゆくと共に、太陽自身も街に位置づけられ相対化された存在になってしまっている。その中に生きている人間は、太陽の匂いと酸味とに包まれて街そのものに貼り付けられた存在のようにも思われる。

太陽に関しては圭之介に不思議な詩が残されている。

 <パレットナイフ 32>抜                 注④
 Ⅳ 三つの太陽 ―――
   二ツ目は動物的反射 今一ツは切り放され
   曖昧な附加物に化したという 咄(はなし)です
 

 Ⅴ 砂が泣いています 笑っているのもいる
   ときに密(ひそ)と話をしているようだから
   いま 海べりに行くのは およし

漫画「ドラゴンボール」のナメック星では3つの太陽がそれぞれ昇ったり沈んだりするそうであるが、実際に太陽系から149光年離れた惑星では3つの太陽が見えるそうである。

また、フランツ・シューベルトの連作歌曲「冬の旅」(Winterreise)のストーリーの中でも三つの太陽を見るという幻想の世界があり、わたしもフィッシャー・デイ―スカウのバリトンで聞くのが好きである。そのストーリーでの旅や失恋、疎外感、絶望などを圭之介の三つの太陽に当て嵌めてみると、太陽のもたらす翳り、時間の流れ、目そのものとの反映に行きつくのだが、少々強引過ぎるかも知れない。


注① 「日没とパンがあれば/近木圭之介の伝言」 川島条・編著・発行 平成22年刊

注② 「ケイノスケ句抄」  層雲社   昭和61年刊

注③ 「層雲自由律2000年句集」合同句集  層雲自由律の会  平成12年刊

注④ 「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会  平成17年刊

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