戦後俳句を読む (22 – 1) ー「幼」を読むー 近木圭乃介の句  / 藤田踏青

ひかり再び閉じ 少年よぎる   平成10年作

今回のテーマ「幼」の「幺」とは糸の上半分の形であり、糸は絲の半分、幺は糸の更に半分で、細く小さい意であり、それに添えられた「力」は弱く小さい意を示している。それ故、満ち足りない意を含む「少年」もその範疇に入ると考えた。

この句の「ひかり」とはいったい何を指しているのであろうか。単なる光であるのか、又は希望や光明であるのか。「少年」とは対象であるのか、または作者の内なる存在であるのか。それは作者の視点、立ち位置に関わるのであるが、「再び閉じ」とあるので希望と内なる存在としての少年と考えると、この句の時間の幅が拡がってくると思われる。特にこの句の前後には次の句が置かれている事もその理由となる。

列島悪の構図 体の穴みな怒り噴く   平成10年作
ひと夏すぎ 隅の埋まらぬ図残し    々

社会悪、それへの憤り、自己への不満の残滓、そして失われた希望。それらを全てひっくるめた総称として、かつての「少年」が一瞬心の中をよぎったのではないであろうか。またその「ひかり」には少年が内に秘めたナイフの凶のようなものも含んでいるようだ。それを想起させるのが次の句と詩である。

銃持った少年青い夏へ引き金を引く   昭和16年作  注①

パレットナイフ 2 抜    注②

Ⅲ 少年は性の倒錯を宿し数年経た 
  どこにも通り抜ける道を持たずに 
  ――いらだちのサラダ私に青い 
Ⅳ 刃のごとく窓に映る河 
  内なる凶 
  沈黙と溶暗

これらの詩、句を読んでいたらいつしか稲垣足穂の「少年愛の美学」を思い浮べていた。足穂はA感覚(アヌス)の主導性とV感覚(ヴァギナ)、P感覚(ペニス)の補助的存在を指摘する事によって、性の倒錯を包含した少年への感覚を謳いあげていた。

「V」とは水増ししたAであって、女性とは「万人向きの少年」を云い、V感覚とは「実用化されたA感覚」に他ならない。   (稲垣足穂)

ここには同性愛とはまた違った「少年」という両性具有的な存在を見ろ事が出来るのだが。掲句の少年もそういった作者の奥底に秘められたデジャビュの様な存在ではなかったのではなかろうか。


注①「ケイノスケ句抄」  層雲社     昭和61年刊

注②「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会 平成17年刊

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