季語・季題をめぐる緊急集中連載⑧   24節気をめぐるシンポジウム発言/筑紫磐井 

24節気:立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒

24節気は旧暦と誤解されているようだ。24節気はむしろ太陽暦の一種である。その証拠に立春は毎年2月3日・4日、立秋は8月7日・8日と太陽暦の日付で確定的に示すことができる。旧暦を「太陰太陽暦」というが、この意味は太陰暦を太陽暦で修正したと言うほどの意味で、その太陰暦とは月のこと、月の満ち欠けで日数を示すこと、これに対し太陽暦とは24節気のことと思えばよい。例えば、24節気を2つずらすと、立春から啓蟄(3月4日)が春のはじめ、立秋から白露(9月8日)が秋のはじめとなる、これなら問題ないであろう。だから24節気問題は、暦の問題ではなくて、名前とその考え方の是非だと言うことが分かるはずである。

季節に2つの考え方があるのは確かだ。春分を含む3月を春とする西洋流の季節感、これに対して立春を春とする東洋の季節感がある。我々の生活、例えば学校とか、仕事とかで西洋流の季節感が主を占めていることは間違いない。例えば小学生に、2月4日からを春というのだと説明するのは教師もつらいものがある。

そこで、現代俳句協会の会長金子兜太が西洋流の季節感をもとに協会の新しい歳時記を作りたいといい、私を含めた10人がその考え方の整理を頼まれた。小学生に西洋流の季節感を教えるのは問題ないが、長い文芸や文化の伝統で培われた東洋の季節感を否定するのは問題であると考える。無季俳句を認めるか認めないかとは別にして、24節気があり、それに基づく生活が送られていることも間違いないことだからだ。

そこで、例えば、立春・雨水は3月にないけれど春の先駆け季語と言えばよいだろう、立秋・処暑も秋の先駆け季語と言えばよいだろうと私は提案した。この考え方を取り入れて、現代俳句協会の『現代俳句歳時記』に兜太が序文を書いている。この基準に従ったから、春は3月から始まっても、24節気は無傷で済んでいる。これは2つの基準をどのように折衷するかの一つの知恵なのである。言っておくが、長谷川櫂が24節気のこうした矛盾を「日本人は季節のずれを楽しむ」と言っているが、これは間違っている。ずれというと、前にも後ろにも動くことを言うが、日本の季節感はさきがけ、ーーー前にだけしかずれない。冬至の翌日から日が延び始める、立春の翌日から寒気がゆるび春の気配がすると言うのを「一陽来復」という。これは東洋特有の思想であるのだ。

とりわけ俳句でさきがけ感が進んでいる言葉がある。アンケートで一番人気のあった「夜の秋」。8月8日は東洋の季節感で秋のはじめだが、さらにその前に夜の気配を感じ取るのが「夜の秋」。西洋流の季節感で言えば夏の真っ盛り、これから暑さが始まると言う時期の夜に秋を感じようと言うのである。これこそ日本人の生活の知恵で、言葉の冷房装置と言ってよいだろう。秋と思えば暑さもしのげるものだ。

こうした中で日本気象協会がやるべきことは見えてくる。科学の普及を図ることは理系集団として当然だが、規範を作ることはふさわしくない。特に科学の普及を図ると言う意味では、24節気も含めて中央で統一した季節感を示すことは科学的に無理が多すぎる。もっともふさわしいのは、地域々々で季節がどのように微妙に変化しているかを見ることだ。これは気象協会の本務である防災のためにも不可欠なことである。たとえば、「岳」の宮坂静生氏は「地貌季語」として埋もれた地域季語を発掘しているが、気象協会でそうしたことをやってよい。あるいは気象庁・気象協会の中には科学的な気象用語や知識が豊富にあるのだから、国民から公募するのではなくて、自ら専門家としてそうした季節の言葉を提案して見てはどうであろうか。

新聞や雑誌でこれほど大きな騒ぎとなった24節気も、こうした結論を見ることができれば生産的であったと言うことになるのではないだろうか。


(7月28日『第4回こもろ・日盛俳句祭』シンポジウム「私にとって季語とはパート2」における筑紫磐井発言準備原稿)

タグ: ,

      
                  

「季語・季題をめぐる緊急集中連載(筑紫磐井・本井英)」の記事

  

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress