戦後俳句を読む (15 – 2) ―「花」を読む― 稲垣きくのの句 / 土肥あき子

こころの喪あくる日のなし花散れり

きくのにとって、しばらく桜は悲しい思い出を引き連れてくる花だった。

第一句集『榧の実』に収められた掲句は昭和33年(1958)の作で、前書に「急逝せし弟の三回忌を迎ふ」とある。きくのにはふたりの弟があり、上の弟を昭和30年(1955)の春に亡くしている。作品は40代の若さで亡くなった弟の三回忌に宛てたものだ。集中には並んで

ゆく春やかけがへのなきひと失くし

がある。

きくののエッセイ「古日傘」によると「南方の島々で全うした命を、彼は松林の家で自ら絶った」とある。自死の理由はさだかではないが、彼の嫁となった女性はきくのが紹介したといういきさつもあって、家庭の事情が関係してくればなおのこと後悔も嘆きも深いものであったと思われる。昭和35年(1960)作の

花散れりこころの呪縛まだとけず

も弟の一件に関わるものだろう。

姉弟はたいへん仲がよかったようで、戦地の弟へ「火焔樹の花を知りたいからもしあったら写生して送ってほしい」ときくのが書き送れば、烈しい戦いのひまを見つけスケッチと押花が返ってくる。同封の手紙には

道路に並木を作って咲きそろう頃はその名のとおり火焔のようで(中略)相当どぎつい花だが親しみが持てる

と記されており、きくのは長旅を経てしなびた南国らしいおおまかな花片を愛おしく弟の、その手に触れる思いでそっと手に取る。

先日、きくのの姪の野口さんから、叔母であるきくのの話しをうかがう機会を得た。野口さんはきくのの下の弟のお嬢さんで、戦後しばらく赤坂の屋敷の敷地内に住んでいた。広大な屋敷の思い出のなかで、ことのほか印象に残っているのが紅蜀葵だったという。紅蜀葵は独立した花弁が特徴のハイビスカスのような花で、その目に沁みるような赤と5片の花弁の独立した姿は火焔樹の花にも似る。

きくのは毎年咲く紅蜀葵を見ながら、戦地にいても、姉を慕い南国の花の姿を描き送ってきた弟の姿を重ねていたのではないか。

句集には収められていないが、昭和12年(1937)の俳句手帳の10月1日にただ一句紅蜀葵の句を見つけることができた。

紅蜀葵一輪なれば痛々し

当時住んでいた家の庭に咲いていたものか、あるいはどこかで見かけたものかもしれない。しかし、一輪だけ咲いている原色の花を、きくのは痛々しいと見た。日本の風土にどこか合わない花だからこそ、群れ咲いてほしいと願ったのだろう。

その後、野口さんから紅蜀葵の種を頂戴した。乾いた花房から小さな種がころころと手のひらにこぼれる。この無愛想な種から深紅の花が開くのだ。

愛するものを秘めるきくのの胸のうちのように。

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