戦後俳句史を読む (22 – 2)- 相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(5)‐

【仲寒蝉】③

  • 8.病気・死と遷子について述べよ。
  • :『山河』の最後の方、つまり闘病俳句を読めば諦めたり強がり言ったり煩悶したり、心が揺れ動いているがこれは人間として自然なことだ。冬麗の微塵の句になってやっと覚悟が定まったかに見える。ただこうして揺れ動く自分を冷静に見て「写生」している遷子がいる。患者や身内の病気・死に対しても自分のそれに対しても冷徹な姿勢はぶれることがない。その意味で極めて科学者的な目を持った人であった。

    自分を「無宗教者」と決めつけたくらいだから信仰を持たず、「死は深き睡り」に過ぎないと考えていた。冬麗の微塵の句にしても「わが山河」と呼びかけた句にしても、死んだ後自分は故郷の自然と一体化すると思っていたのではなかろうか。

  • 9.遷子が当時の俳壇から受けた影響、逆に遷子が及ぼした影響について。
  • :生涯尊敬し、俳句の上でも影響を受けたのはやはり水原秋桜子。同じ医師同士、しかも大学の先輩後輩ということも大きく関係しているに違いない。

    年下ながら波郷も尊敬の対象だったようだが俳句の上での影響は強くないようだ。「境涯俳句を詠む」という行き方は波郷から学んだのかもしれない。『惜命』と遷子の闘病俳句との関係については今後の比較研究が必要だと考えるが全く影響を受けていないということはあり得まい。

    飯田龍太の遷子に対する評価が意外に低いのには驚いた。同じように中央俳壇を遠く離れて自然の中の暮らしを詠む者同士もっと共感するところがあってもよいのではないかと思った。遷子の方は龍太に親しみを感じていた、だからこそ句稿を渡して批判を乞うたのだ。だが龍太は生前の遷子に報いなかった。死後その凄絶な闘病俳句に関して龍太は敬服したようであるが。

    遷子自身は拠り所であった馬酔木の諸子に対してさえ俳句上の影響をほとんど与えなかった。同人会長として、また俳句に対するその真摯な態度は敬愛されていたようだ。しかし彼の俳句は同時代の人々に評価されなかった。だから筆者も今回遷子の句集を具に読むまでは「馬酔木の貴公子」「高原派」という世間の貼ったレッテル以上の知識を持ち合わせていなかったのだ。

  • 10.あなた自身は遷子から何を学んだか?
  • :筆者も医師として冷徹な目を持っているつもりであるが、果たして自身が病気になったり死に直面したとき遷子のように冷静でいられるだろうか、と思う。その目は遷子にとって科学者と文学者という一見正反対の立場を結び付けるものであった。彼の中では医業も俳句も変ることなく接すべきものであったろう。この一貫性は見事なほどだ。恐らく彼のその目の見つめる先にあるものは、医業に携わる時も俳句を詠む時もただ一つであり、焦点がぶれることがなかった。その一つのものとは真実と呼んでもいいし、志と呼んでもいい。いずれにせよ周囲の雑音や評価に惑わされることなく、真摯に、ほとんど求道と言ってよいストイックさで対象に向かう姿勢は羨ましい程である。

    学んだもの、自分も身につけたいものとしてこの「冷徹な目」を挙げたい。

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    相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(5)

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