戦後俳句を読む (7 – 1)    ―「音」を読む―  三橋敏雄の句      / 北川美美

正午過ぎなほ鶯をきく男

掲句、至る所で鶯が鳴いている光景が浮かぶ。けれど、この男、鶯を本当に聞いているのであろうか。「正午過ぎなほ」これは、小原庄助さんを兼ね備えつつマニアックでマイペースな男である。午前中からずっと鶯の声を聞き、午後になってもまだ聞いている。「きく」と書いてあるが、この男、実は「聞いていない」と解釈する。それは、「なほ」からくるもので、尋常ではないことを想わせ、想像力が働く。男に焦点を当て、この男が別の事、言うなれば人生について思い巡らしていると想像する。往々にして三橋作品から音が聞こえない気がする。

凩や耳の中なる石の粒 (*1)  『しだらでん』
梟や男はキャーと叫ばざる

すさまじい凩の音よりも耳に入った石粒が気になる。男はキャーと叫ばない。やはり筆者に「音」は聞こえてこない。白泉は、「玉音を理解せし者前に出よ」「マンボでも何でも踊れ豊の秋」「オルガンが響く地上に猫を懲す」「鶯や製茶會社のホッチキス」などの音から起因する句、それも一拍ずれているような音が聞こえる気がするが、敏雄の「音」は消えている。極め付けなのは、下記の句。

長濤を以て音なし夏の海  『長濤』

映画の中でミュートをかけたように意図的に数秒間「音」が消え、映像だけが流れる効果に似ている。敏雄は、唯一、音楽が苦手だったようだ。「やはり」と思ってしまう。それが俳句の上で効果となっている。「音」を読者に届けるのではなく「言葉」による音の想起を促している。ひとつの物音も俳句を通し読者に想像させる力を持つのである。欲しいのは言葉、そして俳句ということか。

「鶯をきく男」、ウィスキーグラスを片手にただ遠く流れた時間そして人生を想っている気がしてならない。

李白の詩がある。

 『春日醉起言志(春日 酔より起きて志を言ふ)』(*2)

 處世若大夢  世に處(を)ること 大夢の若し
 胡爲勞其生  胡爲(なんすれ)ぞ 其の生を勞する
 所以終日醉  所以(ゆゑ)に終日醉ひ
 頽然臥前楹  頽然として前楹に臥す
 覺來眄庭前  覺め來りて庭前を眄 (なが)むれば
 一鳥花間鳴  一鳥 花間に鳴く
 借問此何時  借問す 此(いま)は何の時ぞと
 春風語流鶯  春風 流鶯に語る
 感之欲歎息  之に感じて歎息せんと欲し
 對酒還自傾  酒に對して還(ま)た自ずから傾く
 浩歌待明月  浩歌して明月を待ち
 曲盡已忘情  曲尽きて已に情を忘る

「鶯をきく男」の句は李白の詩そのものである。マーラー(*3)はこの李白の詩を原作とし連作歌曲『大地の歌(Das Lied von der Erde)』を1902年48歳のとき作曲している(*4)。そして敏雄は、1969 (昭和44)年49歳のときに掲句を得た。俳句形式となった17音は読者の脳波に変換され響き渡るのである。李白をもとにマーラー、敏雄と古典は永遠に人を酔わせ新たな名作を生む力がある。

敏雄は、永い船上勤務で、ひとり、遠く陸を想う時間を過ごしたであろう。「なほ鶯をきく男」はやはり酒を呑みながら世をながめている男であったか。鶯の鳴声(「なお鳴く鶯」すなわち「老鶯」であろう)は、敏雄の中で静かに消されている気がする。


*1)ちなみに白泉に「木枯や目より取出す石の粒」がある。

*2)李白(701-762年)『李白詩選』(松浦知久訳/岩波文庫)

*3)マーラー(Gustav Mahler, 1860 – 1911)

*4) 1986年サントリー・ローヤルのCM(http://www.youtube.com/watch?v=NSlVsnMbZ48)『大地の歌Mov. 3』(http://www.youtube.com/watch?v=lb9KnrrvDc8)が使われた。

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