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戦後俳句を読む(8 – 1) ―テーマ:「肉体」― 三橋敏雄の句 / 北川美美

晩春の肉は舌よりはじまるか

「肉体」というテーマに官能的と思える句を選んだ。掲句、大正男の肉欲を想像させる。戦争の前線にいた男のセックスに違いがあるのだろうか。肉欲は率直である。けれど「はじまるか」である。「舌という部位から身体という肉がはじまるのでしょうか」という率直な意味はもちろん、情事がはじまる予感をしのばせる。現代の草食系男子というのは男の正道でない子供ということになり(だから男子なのか)、迷わず肉欲の男が男なのである。迷うことなく肉を選んだ@『男の滑走路』作詞・横山剣

では、「晩春」とは何か。単なる季語としての背景ではあるまい。人生の季節で「晩春」を迎える男のエロス、同時にタナトスの到来を予感する寂寞の感が背景にある。「春」という語が俗であり雅であることを改めて想う。

読み手側の心拍数の上がる句ということに違いはない。

敏雄の官能句と思わせる句には、したたかにエロティックなものと、母者もの、に二分されるようだが、前者は男性視点で語られることが多く、後者は女性からの支持が多いようだ。実際、加藤郁乎は掲句を『眞神』のなかの最高作としていた(*1)。指示する句により女は「する」ことにより、男は「みる」ことにより官能が刺激されるという説(*2)が関係しているように思える。

時代背景としての話になるが、敏雄より10年若い吉岡康弘の『吉岡康弘写真集』(*3)は予想以上に強烈だ。人体、女性性器が肉のオブジェとして石ころ同様に映っている。篠山紀信氏が公然わいせつで家宅捜索を受けたレベルの露出度ではない。愛は肉からはじまる場合がある、いや、はじまるのである。「見ること、それは眼を閉じること」は、ヴォルスの言葉である。戦後1960年代、世界的に前衛(avant-garde)といわれる芸術活動が盛んだった。

掲句が収録されている『眞神』に下記の肉体に関連する句もある。

肉附の匂ひ知らるな春の母

「春の母」とは何者なのか。単なる季節ではない『眞神』の時空とでもいえるものが春、青春の母。母の肉附の中に隠れている自分、水子かも一寸法師かもしれない自分を母は知らない。「春」という言葉により淫靡さを思いがちであるが、それ以前に自己のルーツと思える句であり『眞神』のキーとなる句と思える。二句とも昭和46年の作である(「肉附」の句が100句目、「肉は舌より」の句が102句目である)。

體溫を保てるわれら今日の月 『疊の上』
人閒も他の生物ぞ泣き泥鰌  『長濤』
肉體に依つて我在り天の川  『しだらでん』

敏雄は肉体を聖なるエロス、霊、たましいの宿る物体として捕えている。前述の吉岡康弘の女性性器も同じく聖なる物体なのである。遡れば、アルチュール・ランボーの『太陽と肉体』を見ても肉体を突き放しているところに詩として共通点を感じる。更に遡って聖書における肉(ヘブライ語:バーサール)は「霊」と対比された人間の物質的な部分、全存在を意味している。敏雄句そのものになるが、「肉体に依って我あり」のとおり人間の聖なる原点が肉体そのものだ。詩歌をつくるものに敏雄句の肉体に潜むようなエロスの神は、そう簡単に降りて来てはくれないだろう(*4)。

そして掲句、またも、係助詞「は」の使用句である。


*1)『俳句季刊』昭和49年1月号/書評集『旗の台管見』(コーベブックス刊)収録

*2) 『オール・アバウト・セックス』鹿島茂/文藝春秋2002年

*3) 吉岡康弘(写真家1935-2002年)1961年、読売アンデパンダン展に出品した写真作品が「ワイセツ」との理由で開催4日目にして撤去された。吉岡康弘はそれに抗議するかたちで、撤去された作品を主に写真集『吉岡康弘作品集』を自費出版した(1962年)。寄稿者に中原祐介、滝口修造、黛俊郎、安部公房、勅使河原宏、石元泰博が名を連ねる。

*4) とはいえ、「女は無意識にエロスの句をつくる」と三橋敏雄がよく言っていたようだ(故・山本紫黄談)。やはり女は「する」こと、出産という生殖の神秘が無意識に言葉に働くのだろうか。

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