戦後俳句を読む(17-2)―テーマ:「風」― 三橋敏雄の句 / 北川美美

新聞紙すつくと立ちて飛ぶ場末

この句が作られたのは昭和33(1958)年(『まぼろしの鱶』収録)なので今から53年前になる。『名句の条件』(アサヒグラフ増刊・昭和63年7月20日号)での楠本憲吉との対談の中で敏雄自身、「名句の決定は最低100年かかる」と定言している。敏雄の設定する殿堂入りまであと約50年。中間地点として考証してみたい。

まず「場末」とういう舞台設定。一昨年のあるシンポジウムで司会進行役がこの句の「場末」を「バマツ」と2回読みあげていて驚いた。シャープ電子辞書の中の『やっぱり読めそうで読めない漢字』には、「場末(バスエ)」が入っていた。現在、使用頻度が少ない言葉となっているようだが、一体「バマツ」とは、どういう場所を想像して句を読んでいたのか不思議である。

そう「場末」とくれば、「スナック」。「酒場」の形容で用いられる例をみる。「場末」は、街外れ、末枯れの意味と同時に「落ちぶれた」「恨みがましい」感もあり、悲しいエレジーが伝わる。俳諧味は充分である。この句の「場末」には世紀末のような緊張感や危機感がありハードボイルド、暗黒なイメージを抱く。どこからか、歌謡曲(@美空ひばり・ちあきなおみ)、シャンソン(@エディット・ピアフ)、ジャズ(@マイルス・デイビス)が聴こえてきそうだ。やはり「バスエ」と読みたい。絶望感漂う場所でありながら、どこか摑み切れない言葉であることも確かだ。

続いて主役である「新聞紙」。捨ててあるものと仮定できる。金成日の死去を掲げる新聞各紙、「われわれは99%」のデモを報じるNew York Times、盗聴疑惑で廃刊に追い込まれたThe News of the World 等々、銘柄にこだわる必要はないだろう。一方的かつ不特定多数の受け手へ向けての情報を印字したエコロジカルな紙は、世界のどの末枯れた街角にも存在する。身近なマスメディアを生き物のように俳句の中で立ち上がらせたことに驚きが生まれた。まさしく詩の「身体性」である。

社会を垣間見ることのできる紙がすっくと立ち上り飛んでいく。「場末」にも関わらず、「すくと立つ」が妙に健康的である。末枯れた路地からクラーク・ジョセフ・ケント(@スーパーマン)が立ち上がって飛んでいく、あるいは、紙に代わるインターネット、電子書籍の普及予言にも思える。そして実際に「新聞紙」が生き物のように「すく」と立てば、それは恐ろしい光景である。新聞紙を「捨てられるもの」と考えれば、男達を震撼させた映画・『危険な情事』の中の不倫相手の女役であるグレン・グロースが風呂場に復讐に行くクライマックスシーンをも連想する。

戦争が廊下の奥に立つてゐた 白泉

敏雄は「戦争」でない主体(「新聞紙」)を無季(「場末」)の中で「立たせた」ということか。白泉に多少の糸口を発見したのは、気休めだろうか、そう甘くないことは覚悟の上ではあるが。

新聞紙は風を受けなければ、立ち上がることもなければ飛んでいかない。それにふさわしい時期、すなわち年末、冬のイメージがある。場末の街に見るのは、枯葉、ゴミなどが冷却するアスファルトに吸い付きながら這うように吹かれる風景である。新聞紙が風を受けて本当に立ち上がるのだろうか。しかし立つと思えるのである。リアルだと読み手に思わせる。意表をついた取り合せが説得力をもつのは、「新聞紙」に置き換えた社会という現場に対する批判精神があるからだろう。

2011年の日本の場末にすっくと立つのは戦争でも新聞でもなくブルーシートである。53年経過する句の着地点はどこなのか。読者を混沌と惑わせることが敏雄の狙いなのだろうか。

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