戦後俳句を読む (20- 3) – 「女」を読む -戦後川柳/清水かおり

少女恍惚父の愛人たるひとに   寺尾俊平
(1925年~1998年・岡山)
句文集『獅子の懐』所収

戦後川柳のテーマに沿って物故者の句を選んでいると、女性作家の句集はとても少ない。手元にあるのは男性作家ばかりである。夫婦の場合、妻のほうが長生きであるという統計的実情もあるが、やはり戦後数十年の川柳は男性社会であったことを窺わせる。男性作家の句集には妻や母や恋人を詠んだ句がたくさんあるので選句は簡単だろうと思っていた。それが意外に手間取ったのは、想の似通ったものが大半だったからだ。詠まれた女達への男性作家の照れのようなものを感じながら、ふと寺尾俊平のこの句に立ち止まった。句の構成は技巧や表現をどうこういう類のものではないが父の愛人を見ている少女の心の動きを詠んだ視点が面白いと思った作品である。

作中の少女は父の娘だろうか、もしそうなら女性を父の愛人と知っているのだろうか。この「恍惚」という言葉から、少女期の年上女性への憧れや少女自身の女性性の目覚めの部分に焦点がいきそうになる。しかし、この句の眼目は「愛人たる」の「たる」だろう。「たり」の連体形で資格を表す文語をさりげなく「愛人」に付けることで父の人物像をしっかりと浮き上がらせて詠っている。「たる」によって父の威厳を愛人という存在にまで及ばせているのだ。この句が詠まれた昭和38年頃はまだ普通に家父長制が家庭の営みの中にあったことがわかる。

一般に川柳は句を詠んだ本人が句の主体と考える傾向があるので、こういう句を発表した時の周囲の反応を作者俊平は楽しんだのかもしれない。というのも、少女を詠む主体は父のようでもあるが、どちらかといえば父と少女を見ている別の人間の視線である。少女と愛人と父の3人の登場人物を立たせて、脚本的なシーンを読者に期待しているような句に思える。このあたりは、寺尾俊平という人物のちゃめっけのある部分を知っている人なら苦笑しながら通過するところだ。もしこの句が少年を詠んだものだったらこのように意味深にはならなかっただろう。川柳の人間を書くという部分には真実とフィクションがバランスよく同居する。読者はその中にある一握りの感性を受け取ればいいのである。

寺尾俊平の一周忌に出版された『寺尾俊平句集』から時を経ずに、句文集『獅子の懐』は発刊された。掲載作品は俊平が師事した川上三太郎が「川柳研究」で採り上げたものだけに限定されている。昭和32年から43年迄の、ちょうど俊平が川柳を創り始めて10数年という、情熱と探究心に溢れた時代の荒削りな若さが見える句群だ。表記は旧仮名使い。これは川上三太郎が旧仮名しか認めなかったのだと、大野風太郎が序文で述べている。掲載の散文は後年のもので、幼少の頃のエピソードから長年勤務した大蔵省印刷所での様子、伴侶明子夫人との睦まじい関係や、川柳仲間の事がユーモアを交えた温かな描写で書かれている。「川柳塾」塾長、寺尾俊平の足跡と魅力的な人物像が詰まった句文集だ。

戦後俳句を読む(20 – 3) 目次

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