⑧ 火の気なくあそぶ花あり急ぐ秋
複雑な句である。
火の気、花、秋が、「なく」「あそぶ」「あり」「急ぐ」で繋がっている。ジグソーパズルのようだ。一句の中の動詞、形容詞の多用は新興俳句、ことに戦火想望俳句に多くみられる。
射ち来る弾道見えずとも低し 『弾道』
そらを射ち野砲砲身あとずさる 〃
⑧にみる動詞、形容詞の多用は、「新興俳句は壊滅した」(渡邊白泉全句集・帯文)と言い切る敏雄の帰るところのない修練なのだろう。動詞の多用による散文化を拒む敏雄独自の創作の視点がみられる。そして「季」について考えるつづける吐露のようにも思える。
「火の気なく」と言えば、火がない、あるいは人がいない様子。「あそぶ花あり」とは、はっきりとした目的をもたない花の動作、あるいは、華やかな女性の様子等が想像でき多義である。「急ぐ秋」は、足早に秋が過ぎゆくとともに人生の残りの時間を考えているようにも読める。
ここでは「あそぶ」と「急ぐ」、「花」と「秋」が対極になっているのが面白い。意味よりも、技法的試みがこの句には見られる。⑦⑧⑨に関しては、言葉の繋がり、遊び、一句中の言葉の配置、句集中の配置に目が行く。
⑨ こぼれ飯乾きて米や痛き秋
⑧ の「急ぐ秋」につづき「痛き秋」である。身近な言葉で先人たちが多く詠んだ「秋」という壮大な詩歌の季の原点に還っていることに気が付いた。『古今集』の時代には、秋を時間とともに物が移ろう悲しい季節と感じていた。「急ぐ秋」「痛き秋」は、詩歌が生まれた頃の秋を現代に通じる季として言い換えているように思えるのである。
「こぼれ飯乾きて米や」は、確かにありえる風景である上に、上五中七の12音で水分が抜ける時間経過を示し、且つ古俳句の趣がある。下五に「痛き秋」を持ってくることにより、さらに敏雄独自の風格が出たのだと思う。
「痛き秋」が米が刺さって痛いのか、痛切な心情を言っているのかは、はっきりと理解できない。しかしながら「痛き」という響きがすでに人の心に刺さってくるような、視覚からもジンジンくるような感覚はわかる。
また「こぼれ飯」とは、当然、食事中、配膳中にこぼれた飯のことだろう。確かに「飯をこぼす」「食事をこぼす」という。「飯」ではなく「米」をこぼす句は過去に作例がある。「立春の米こぼれをり葛西橋 石田波郷
」は、葛西橋に闇米の検問所があった様子の句らしい。さらに「こぼれ米」について甲乙つけがたい下記例句があった(@日めくり詩歌 高山れおな風)。
逆立つは屍の黄金虫こぼれ米 山本紫黄
尼たちの菫摘みけんこぼれ米 桜井梅室
「米」をことさら大切にする国民性だからこそ「こぼれ米」が効く。ならば敏雄の「こぼれ飯」もそれと同じ効果がある。「こぼれた飯が乾いて炊飯前の米になった、痛い秋だな」という以外多分何も言っていないのである。
⑦⑧⑨は俳句の軽みを思いながら読み進めることができる。その中で特に⑨は秀句として取り上げられることが多い。古俳句の趣と「痛き」による感覚表現が時代をクロスオーバーしているからだろう。