戦後俳句を読む(10-3)攝津幸彦の句 Haiku from the Ruins /  堺谷真人

Haiku from the Ruins~攝津幸彦小論~

1945年6月9日、土曜日、午前08時30分。米軍第58爆撃団所属のB-29戦略爆撃機40余機が兵庫県武庫郡鳴尾村に来襲した。任務番号第191号。目標は川西航空機鳴尾製作所。大日本帝国海軍の二式飛行艇や紫電、紫電改などの戦闘機を製造した軍需工場である。

目標上空の天候は曇り。使用されたのはAN-M65 1000ポンド通常弾。高度2万フィートからの精密爆撃は約30分間続き、投下弾トン数は263.5トンに達した。任務終了後の航空写真では、工場総屋根面積の69%に破壊乃至損傷が見られ、施設の26%は修復不能と推定された。

 2ヵ月後の8月6日、月曜日。米軍第73、第314爆撃団に所属する250余機が阪神間に来襲した。いわゆる「阪神大空襲」である。任務番号314号。目標は西宮から御影にかけての都市部。作戦任務報告書の「目標の重要性」には、この地域が大阪と神戸の大企業に部品を供給する下請中小工場地帯であることが記載されている。写真偵察では市街地の32%の破壊が確認された。西宮に隣接する鳴尾村も罹災。爆弾、焼夷弾の大量投下により村域の大半が灰燼に帰した。

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攝津幸彦は1947年1月28日に兵庫県養父郡八鹿町に生まれた。2歳のとき鳴尾に移り住み、以後、10余年をこの地で過ごした。筑紫磐井が『攝津幸彦選集』(2006年・邑書林)に寄せた文章「語録・文章・俳句から」には、幸彦自身による鳴尾時代の回想が見える。

戦争が終わって十年にもなるのに海へ続く運河沿いの飛行機工場の後は黒く焼け焦げた瓦礫の山でコンクリート片からニョキニョキと鉄筋がむきだしに伸びていた。あちこちに水溜りがあってその水は廃墟に似つかわしくなくいつも透き通っていて目高が泳いだりしていた。運河の堤防へ続く土手は春には蓬草が一面を覆い秋ともなると堤防の上から黄金の麦畑が一望できた。

(「中烏健二句集<愛のフランケンシュタイン>の思い出」より)

幸彦に直接の空襲体験はない。が、空襲が残した廃墟こそ彼の遊び場だったのである。焼けただれた瓦礫、銹びた鉄筋、そして爆撃であいた大穴の水溜り。あたりを掘り返せば、高温で溶融した金属やガラスの破片が容易に見つかったことであろう。

戦争体験者と非体験者。両者にとって同じ廃墟が異なる風景を見せることは想像に難くない。敵の猛攻で完膚なきまで破壊された軍用機工場の廃墟であれば尚更である。鳴尾製作所の跡地に立つとき、戦中派は否応なく戦争の記憶と向かい合わざるを得ない。一方、戦後生まれの少年にとって、そこは物心ついた頃からの生活圏の一部であり、日常生活の先験的与件に過ぎなかった。赤茶けた焦土の中から重厚な歯車やボルトを見つけた少年は、よしんばその造型や質感に即物的な興味を示すことはあっても、それらが本来持っていた意味、あるいは意味の喪失について思いをめぐらすことは稀であったかもしれない。

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 ところで、代表作「皇国前衛歌」について、雑誌「太陽」のインタビューに応じ幸彦は次のような発言を残している。小学校三年ぐらいの頃、母親の実家にあった昔のSP盤を電気蓄音機でよく聞いていた。それがほとんど軍歌だったため、「露営の歌」などの歌詞を意味も分からずある種のムードとともに丸暗記してしまった、云々。軍国主義や戦意高揚といった歴史的文脈とは無縁のところで幸彦が「皇国的語彙」に馴れ親しんでいった経緯がよく分かる。

皇国(みくに)且つ柱時計に真昼来ぬ
送る万歳死ぬる万歳夜も円舞曲(ワルツ)
若ざくら濡れつつありぬ八紘(あめのした)
満蒙や死とかけ解けぬ春の雪
幾千代も散るは美し明日は三越
南国に死して御恩のみなみかぜ

皇国、万歳、八紘、満蒙、散るは美し、御恩・・・。これらいわば「皇国的語彙」に対して多くの日本人は戦後長く気まずい思いをしてきた。それらは戦前・戦中の軍国主義の記憶とあまりにも強く結びついているが故に否定すべき過去の遺物とされる一方、一部の戦中派にとっては根強い郷愁を呼び起こす特別な言葉であり、更に同一個人の中で否定・肯定どちらとも見定めがたい両義性を持つことさえあったからである。

いずれにせよ、「皇国的語彙」はその濃厚すぎる歴史性・意味性のために、俳句の構成要素としては取り扱いにくい言葉であった。意味の牡蠣殻が厚く付着して詩語としての働きを阻害する惧れもあった。にもかかわらず、あの三島由紀夫が自決してから僅か5年後のタイミングで、幸彦は「皇国的語彙」を実にぬけぬけと苦もなく操ってみせたのである。あたかも練達の手品師のような手ぶりで。

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廃墟に残る歯車やボルトの重さや手触りに対する即物的関心。熱による変形・変色さえも古陶の耀変のごとく賞玩してやまない孤独な偏愛。「皇国前衛歌」の作者・攝津幸彦が、大文字で書かれた歴史の意味性から遠い場所で「皇国的語彙」に対して持っていた距離感もしくは距離感のなさは、ひょっとするとそのような廃墟あそびの原体験に根ざしていたのではないだろうか。

向日葵や瓦礫いつともなく消えて 『陸々集』

(2011年9月11日 脱稿)

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