戦後俳句を読む(10-3)攝津幸彦の句 / 堀本吟

亡きものは亡き姿なり・・団塊世代俳人の逆説的立ち位置・・・

1・〈極私〉 

 攝津幸彦没後十年、それからさらにもう五年経とうとしている。うれしいことに、この間に、生前の各個人句集を集めて、『攝津幸彦全句集』(沖積舎)や『選集』(邑書林)、散文集『俳句幻景』(沖積舎)、夫人の回想集『幸彦幻景』・・。後世が十分学ぶに必要な資料が刊行された。これらの文献をひらくことは「セッツ」と共にもういちど「セッツ」とこの世界をたのしむことでもある。あるいは果ては忘れさられてしまうのかも知れないが、この作家ののこした俳句の幅や深度を反芻すればそうはならないはずである。

 しかし、そうはいっても、攝津幸彦とは、じつは型どおりには捉えにくいたいへんな俳人である。彼の俳句には(依然として)とらえ方のわからぬ要素が多々埋蔵されているのである。(すぐれたリーダーや先達とはおうおうにしてそういうものだが)

 団塊の世代は、昭和二十年以降つまり第二次世界大戦以後に生まれ、昭和の終焉を見た。戦前に生まれた戦後作家(鈴木六林男、金子兜太、三橋敏雄、安井浩司、阿部完市、加藤郁乎、等を想起してほしい)作家達を父として年の離れて兄として、その背中をみて成熟していった。最近台頭している平成の新人達、昭和という時代を知らないで生まれ育った青年俳人達(いまの『新撰21』の20代〜40代の作家を一応想起してほしい)は弟や息子世代にあたる。攝津幸彦達はそのはざまに活躍した。

春夜汽車姉から先に浮遊せり 攝津幸彦 
弟へ恋と湯婆ゆたんぽゆづります   同

 「姉」の句は 『陸々集』(1992・弘栄堂書店 )、「弟」の句は 『鹿々集』は最後の公刊句集である『鹿々集』(1996、ふらんす堂)所収。

 等々、なつかしみある句を遺した彼が、前後の世代の人たちと決定的にどこが違うか、ということが私には一つの関心を惹く。(同時代の坪内稔典や江里明彦、夏石番矢等との作風や個性の異同のほうがむしろ言いやすい)。私がここにきた当初には、彼らが昭和後半、二十世紀末の「新人」といわれていたのだが・・・。俳句の流れの中で、その終盤に登場した新しい波、攝津幸彦もその一人であり、現在の平成の新しい波をうむ一つの起点ともなっている。

 たしかに戦争を知らない世代のはしりとなった存在であったが、その時代人の特徴と共に、彼にあっては、発想の場所とりわけ個人的なところにある、とみられる。俳句形式を想定して解読してある程度のことが解る多くの俳人にくらべてやはりそうとう蠱惑的な印象をふりまいている理由かも知れない。

 摂津の句があまりに高度の技術を駆使しているために、そういう彼の俳句の意味の重層性多義性に惹かれて、同時代のわれわれは、多義性のひとつひとつ根拠を明らかにするようなことをあえて等閑視してきたとも言える。攝津幸彦の特異性をしめす表徴は多くの句にも散見するのであるが、それはあとにおくこととして、私はある散文の一節に目を留めた。そこにはこう述懐されている。

 青春が確固たる目的もないままにひたすらに上昇を思考する病いのように、私と俳句とのかかわりも、またひとつの病いであったのだ。しかし、いつの頃からか、血が流れる身体をこすりつけるにふさわしい価値あるものが見いだせない状況がやって来ていて、いまや病いとてけっして近寄ることができないほどの空虚が私の身辺を取り巻いているのであった。
 思想が意匠ではなく、意匠がそのまま思想であるかのような、思わせぶりのみが目立つ俳句形式の逆説的構造から、なんどか徹底的に白けてみようと思ったことがある。
 《俳句と極私的現在》一九八一年三月「俳句研究」。『俳句幻景』所収一九九九年南風の会発行)

 存在と言葉は別次元のものである、と言う命題を認めながら、それでも作品の内容や形式と、一種の絶望感ただよう個人的動機とが不即不離であるということに、あやうく触れてまた離れるている微妙な筆調である。

 表現の動機は人さまざまであるが、伝統詩型の場合は、おおむねその様式性を学ぶことに重点が置かれる。俳句などはとくに形式への帰依のほうが強い。それで、上に書かれた「思想が意匠ではなく、意匠がそのまま思想であるかのような、」という攝津の俳句形式に対する認識は、まさに多くの共通認識でもある。私が十代の少女だった頃、〈思想は一の意匠であるか〉という萩原朔太郎の詩の一節にひどく惹かれたことがあった。それと同じ感慨をあるいは攝津幸彦も抱いてしまったのである。

 だが、その後につづく「思わせぶりのみが目立つ俳句形式の逆説的構造」というところは、攝津特有のレトリックでその時代の文学思想としてともかく納得されている。これを、穏やかに平たく言い直すならば、さしずめ次のような説明がいるだろう。

「俳句形式とは、思想を信条や真情の吐露としてではなく、完璧に詩形のスタイルを完璧に表現することで思いを貫徹する行為である。これは表現の動機からすれば逆説となるが、俳句形式を完成するためにはこの逆説が、まさに正当であり、正統ということの証しであるとされるが、しかしこれは事大主義である。」(筆者翻案)

・・と最低限これぐらいの説明は必要で。このほうが、思わせぶりないちゃもんと受け取られかねない。ともかく、彼はこの「逆説的構造」から「なんどか徹底的に白けてみようと思ったことがある。」のだそうだ。句もわかりにくいが、散文の文脈も散文詩の一節のように、論理がねじれたり曲がったりしている、攝津幸彦の心底もわかりにくい。しかし、このような理念のねじれや錯綜を情緒的な面もふくめて丁寧に書き込むことを、攝津は誠実に果たしているのである。感覚的に私には攝津の懐疑がよくわかる。そして、人口に膾炙する下記のような名句は、このような韜晦に充ちた認識の中から生まれている。

幾千代も散るは美し明日は三越  『鳥子』
国家よりワタクシ大事さくらんぼ  『陸陸集』

 韜晦に充ちた日常詠や、太宰治の発言にこと寄せたマニフェストである。

2 無化された〈私〉

 彼の根底にはつよい伝統回帰の心、(いや、回帰ではない。むしろ伝統とは何か、と訊ねる心)、私に執しながらも、自己放棄においつめられるなにかの心理的機制が強烈だといわざるを得ない。言葉もふくめて世界から退こうとする退嬰の心理や自分の生存への危機感や葛藤が、形式破壊をも辞せず形式の本質をきわめようとすすむ現代俳句の形式願望のベクトルとかみ合ってゆく。だれもが抱く葛藤である。その葛藤は、すくなくともその時期までは創作のエネルギー源として効果的に機能していた・・。

 先ず、深みのある諧謔というべき独得な味わいと、それを生み出すための高度な技巧・・が驚きをもって注目されるのであるとしても、それは曰く言い難い生存への懐疑という実存的な動機からあみだされているのだ。攝津幸彦に対しては、(あるいは対しても)、私は表現の思想が成立する重要場面として、そのかかわりのありかたを考えたい。

 私は攝津の俳句を読むたびに、人生いかに行くべきかについて素朴に素直に考えている青臭い青年の像を思い描き、且つ、最後になって、そういう感慨全体を茶化される。このように句が進む経過や段取りが面白くてならない。彼はきっと、晩年執心した永田耕衣や安井浩司の世界のなにかに反応しているのだ。(今回はこのことは述べない)。そして、きわめて人間的でありながら、存在と言うときに、ふと、懐疑におちいる思考のアンビバレンツをみてとる。そこに大きな大事な示唆を受けるのである。

 また。

 俳句的自然、俳句のリアリティ、新しい俳句形式の発見という大義や情緒への回帰そのものにも白けきろうとする時、やがてそこに無化された「私」が発見されるのではないかと思った。

(同上エッセイ)

 とつづく文意では、「俳句とは?」と言う「大義への回帰」を捨てたときに、書き得なかった「」が、書き得ない「無化された」すがたのままあらわれるはずだ、これこそ自分が俳句で語りたかったことなのだ。と言う。

きりぎりす不在ののちもうつむきぬ 『鳥子』
亡きものは亡き姿なりあんかう鍋(『輿野情話』)

 これは「無化された私」が、「逆説的」にそこには居ないことを主張しにあらわれている、と読むべきなのである。(ほんとうにそう読むべきであろうか?)

具体的な解説はこの後に囃したい。

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