4人の参加者による幸彦鑑賞7句① /岡村知昭・大橋愛由等・中村安伸・堀本 吟

ひとみ元消化器なりし冬青空      攝津幸彦 『鳥子』〔昭和五十一年 ぬ書房)

岡村知昭
 冬晴れの空を見上げる視線はどこか虚ろで、空の色もどこかうすぼんやりとしているかのような青。「ひとみ」というひとりの女性との濃密な日々も遠い過去のもの、いまでは「ひとみ」と過ごした日々は果たして本当だったのかすら疑わしくなってしまうほど、でも決して忘れ去ってしまえたわけではない、むしろ自分の中には「ひとみ」の存在を示す何かは間違いなく残っていて、ある時は疼き、またある時には痛みとなって全身を襲う。「元消化器」との奇襲の措辞も、今はこの場にいない「ひとみ」への想いの数々がもたらしたものだとしてしまえば、冬青空を眺めるしかないある日の自分自身の哀しみ、「ひとみ」を失ってしまったあの日から抱え込んでいる自分の中の空洞の大きさに改めて気づいてしまった、そんな自分にふさわしいのは、ぼんやりと空を見上げていることでしかないのだろう。別れの物語も抒情的になれば救いがありそうだが、物語からも突き放されたかのような自分にはもう「ひとみ」は夢幻ですらなくなっている、なぜだ。

中村安伸
消化器は身体をつらぬく管であり、終端に口唇と肛門がある。デリケートな粘膜
で覆われ、摂食、排泄、時に性交に用いられる。
瞳(瞳孔)はかつて消化器の一部であり、今は切り離されているという。ひらが
な表記から「ひとみ」を人名と捉えることもできる。
眼球の一部である瞳、あるいはひとみという名の人物が、消化器の官能や貪欲さ
を受け継いでいるという読みも可能だが、
進化の過程において分化し、切り離された器官の孤独のようなものをより強く感
じるのは「冬青空」という季語の効果であろう。
消化器の能動性に対し、感覚器である瞳は受動的である。すべてをあきらめすべ
てを受け入れることにした「ひとみ」の受動性は気高い。

大橋 愛由等
 いきなり俳句の読解力を試される作品です。「ひとみ」に表象されている人間のさまざまな感情(泣き、笑い、悲しみ、絶望など)の根元は、消化器というヒトの基本的物象に還元されてしまうのだという心的覚醒を詠んだ句でしょうか。なにせ人間はつまるところ一本の管(消化器)で出来ているのだとの解剖学的事実があります。しかしこうした読みで落ち着いてしまうのは少し悔しい。意味の転位を考えたくなります。下五の〈冬青空〉を句の主体と設定すると、限りなくスケルトンに近い冬青の永遠性の中に、ヒトの感情の表出や、身体性がなべて包摂されているのだと読んだ方が、読後の爽快感が増すような気がします。

堀本 吟
 ウソや!ひとみ(目)が、消化器と直結しているなんて。そんな生物はいない。ただ、生命の発 生は、最初に「原腸」ができ、それからいろいろな身体維持の器官が同時多発的に分化してゆく複雑な過程があり、それで、「ひとみ」と「消化器」が未分化状態の時期があった。

 ともかく、ホントのことをそのまま書くのが詩ではないし俳句でもない。

 「ひとみ」=「元消化器」。これが感覚にリアリティを喚び起こすのは、ここに冷たく寒く澄んだ「冬青空」が現存しているからである。いやこれも虚のシチュエーション。

 さて、そこは、目糞(目やに)や涙という液体がでてくる孔、。ロマンチックな感情を消化し、眼差しによってつよい意志を湛える。感情の排泄孔。そういえばクラゲ、ナマコ、タコ、と奇妙な生理構造の生き物もいるなあ、と思いつつ、傍らの人の「ひとみ」を覗く。虹彩と呼ばれる深い穴を・・。すると、そこは、まぎれもなく青い寒い虚空が映っていて、わらわらと出口をもとめてうごめいているものがいるではないか?ああ、と私は納得する。非生物と生物の肉体をつなぐ壮大な詩的生物連鎖がここにある。未だ認知されない未開の虚空がその存在の一端を見せた瞬間。「ひとみ」こそ、肉体の涯にあって全てのものの究極の居場所となる冬の寒い青空そのものなのだ。

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