バスの窓に額をあてるこの街のどのネオンより雪は青くて 中家 菜津子

バスの窓に

バスの窓に額をあてるこの街のどのネオンより雪は青くて   中家菜津子

天の川銀河のこの星この国で最も寒い地方都市の外れに、三百人ほどが暮らす小さな集落《etanpet》がある。夏と冬の温度差は七十度以上。冬になれば氷点下三十度以下の最低気温とダイヤモンドダストの映像が全国のニュースに流れる。

この街に新しくできた近代的な硝子張りの駅舎の前を始発とする《etanpet》行きのバスは一日に三本のみ。終バスは午後五時四七分発、終点には一時間足らずで着く。

白髪を一つに束ね背中が少し曲がった老婦人が、駅前の病院の青く光る文字を眺めて深くため息をつくとゆっくりとバスに乗り込み、運転手のすぐ後ろの席に座る。車内は暖房のためか石油系の匂いが僅かにして、日に焼けたビロードの席は居眠りにちょうどよい暖かさに保たれている。繁華街を行くバスは一方通行の道添いの放送局の前で、服装が自由化されている東高の、白いダッフルコートのフードに雪雲をつめた学生を乗せ、頑強さが優美さを失わせることのない西洋の工法で架けられた古いアーチ橋を渡り、戦死者が祀られた神社の前で、紺色の制服のスカートの裏に銀河をはためかせている北高生を乗せた。

ふたりは中学の同級生で互いの高校の名物教師の話をしている。彼女たちのおしゃべりが最高潮し達し一オクターブ声が高くなる頃、バスは街と町を隔てる小さな山を越え《cikap – un – i》に入る。この町の二つ目のバス停で乗客を数人吐きだし、運転手と老婆と彼女たちだけになった車内ではエンジン音と笑い声と寝息が、全く異なる音楽が偶然調和したような不思議なリズムを生んでいた。

くすんだ翡翠色の橋の手前で北高生が降りる。「またね」とくちびるを動かし、窓越しに北国の人の白い手と毛糸の手袋をはめた手を振りあってふたりは別れた。

バスの風圧で、昨日、欄干に積もった雪がけむりのように細かく広がって川へと落ちてゆく。橋の向こうはいよいよ家も街灯もまばらで、田園を春まで隠し続ける雪原が広がっている。空の明るさは星明りよりはまだ明るい。天文薄明を一面の雪が反射していた。

バスの窓に額をあてるこの街のどのネオンより雪は青くて

バス停の間隔は遠くなり800メートルほど進んで、もうひとりの高校生が降りると乗客は眠っている老婦人だけになった。車を降りても遮るものが何もないこの土地では、バスの明かりをいつまでも目で追って婦人を見送ることができる。

 街燈は凍った月の色をしてわたしのかたちに翳る雪道

*
運転手と老婦人と学生のこの日常は何度も繰り返された。
けれども高校生だった私は一度も《etanpet》に行くことはなかった。家の近くで降りずにバスにそのまま乗っていれば三十分もせずに着いたというのに。七月には一面の蕎麦の花が月明かりに照らされて雪のように仄明るく輝くという終点の、漢詩のような風景に憧れて、「夏になったら行こうね。」と言いながら二人とも一度も「今日行こう。」とは言わず、十八歳でこの町を出た。
学校と家を結ぶバス停は待ち針のように立つ。その線分から硝子越しに見える景色が私の行き止まりで終点だった。玻璃の裁縫箱の外へ出るにはあの老婦人のように少しだけ眠りつづければよかったのだ。

ひとしずく溶けては凍る銀色のつららの林を窓越しに見る

*
この都市の347,207人の街明かりを、飛行機の窓から見下ろせば銀河そのもの。中心部は光が密集して、外側へいくほど薄らいでゆき、やがて静かに宇宙の闇につながっている。その闇の中の満天の《etanpet》の空を思って私は故郷を後にした。

銀の雫降る降るまわりにシロカニペランランピシカン ささやけば輝きながら凍りつく息


Etanpet 江丹別の由来になったアイヌ語 江丹別川の意味
cikap – un -i 鷹栖町の由来になったアイヌ語 鳥のいるところの意味 
銀の雫降る降るまわりにまわりに 知里幸恵「アイヌ神謡集」梟の神の自ら歌った謡

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