詩は感覚や思考における全く未知の旅のようだと思う。
旅することのあまりない私は、詩によって空を飛び、風を感じ、時に閃光で墜落する。そんな中でも、ここで紹介したいのは旅そのものがテーマの詩集『新鹿』だ。
幻の鹿たちが 木の間がくれに駆けていく
太陽はずっと私たちの代わりに光で泣いていた
消える寸前 夕暮れは熊野の祝祭となる
あるはずもない故郷を信じられる 私たちの夢の力よ
ひとすじの物語のごとく黄の光に押され
ハンドルを握るひとは胸のあたりから
国道311号線を県道737号線へ曲がる、つよくもとめていく
新鹿はどこか
ジャズのようにいのちの応答を呼び覚ます問いかけ
――もっと別な方法はないか?
(深い声がはじまる)
――別な世界でなく、何か別な方法はないだろうか? (注:「世界」と「方法」に傍点)(河津聖恵「新鹿(二)」より)
「僕の好きな紀州へ」と友人に誘われ、「海にこがれる矢」のような特急で彼の地へ向かう。が、詩人が見たいものは風景だけではない。光さした所は闇も濃い。埋もれた物語は容易には掘り出し得ず、「みずからをひら」き、いのちの力を「指先までみち」させることでもとめるしかない。問いかけることで応える声を探っていくしかないのだ。
ためらいひらこうとする闇の一隅の花の美しさを、もっと感じたい
たとえはかなく消えてしまうとも、感じ尽くしたい(「皆ノ川」より)
地の力の働きだけでそうするのではない。私にも貴方にも、ここにもそこにも、一瞬という幻の花は開き、凋れてゆく。それを感じ尽くすことこそが生なのだと詩人に共振する。
他者と自己の生命へ真摯に向き合う彼女の詩は、いつも私の魂を深く深く癒やす。