考えてみれば、私はことのほか、詩を読んでいない。ごくたまにしか詩の専門誌も手にしない。詩という分野からいえば、いたって怠け者としか言いようがない。この四十年近く、仲間とともに、子どもたちに本を手渡す仕事のひとつとして、地方新聞に毎月児童書の新刊を紹介し続けてきた関係もあって、もっぱら児童書を読むことに時間を費やし、読む楽しみを満喫していたからかもしれない。
戦後すぐ、1947年頃からようやく出回るようになった萩原朔太郎や三好達治などの詩集を読んで、そのなんともいえない妖しい感性や、言葉の絵に驚き、友人と同人詩誌の真似ごとをしたりしたものだが、それは熱狂的ともいえる当時の風潮だったのかもしれない。そんな一過性の関心のなかで、これまで、おりにふれては読み返した詩は宮沢賢治の詩だったとあらためて思った。
私が宮沢賢治を知ったのは、小学生の高学年のころで、まずは、童話『どんぐりと山猫』だった。まったく子どもの読み物が少なかった軍国主義一点張りだった時代に、なんて面白いおはなしなんだろうと思ったことや『風の又三郎』の映画を母と見に行ったこと、などが思い出される。
1945年敗戦で、ないもかもが逆転し、なにを信じていけば良いのか分からなくなっていたころ出会った詩が「雨ニモマケズ」であった。それは静かに、しかし、ひたむきに生きることの美しさを教えてくれる言葉だった。その後すぐ「春と修羅」を手にしてその詩の変幻自在なきらめきに、その時間・空間の巨きさに、思いがけないイメージの展開、そのスピード感に、感動するばかりだった。宮沢賢治の世界は、宝石のかけらで作った万華鏡。のぞく人それぞれに違う風景を見せる言葉の連なりだと思う。それは、言葉を読むという意味をふまえても、ことさらに賢治の世界だけに感じる透明な色感や音感が多い。賢治の童話の挿絵や絵本に、たくさんの画家が挑戦しているが、どうしてもしっくりしない。違う違うと思ってしまう。きっと読み手それぞれが「私の賢治」を胸に抱いているからだろう。
私も宮沢賢治の世界に、これからも驚き、目を見張りながら、たくさんの示唆をあたえられて生きていきたいと思っている。