3・11以後の方言詩の可能性 ~高木恭造『まるめろ』を読む~ 及川俊哉

 高木恭造の『まるめろ』という詩集を最近繰り返し読んでいる。例えば、「吹雪」という作品。

吹雪フギ

子供等ワラハドェ 
ぐど寝でまれ 
  
ほらァ! 
あれァ白いオウガメァ吼えで 
ケでりてらンだド 
まぎのスマがら 
死ンだヂコババ 睨めでるド 
  
子供等ワラハドェ 
ぐど寝でまれ

 高木の方言詩はふりがなや送りがなに工夫がある。特に送りがなや助詞の表記は自分たちが発音している方言の音声を正しく表記したいという願いが現れたものだ。自分も東北に生まれ育ったものとして、東北方言を文字表記するということに高木がどれほど悩んだだろうと思うと、頭の下がる思いがする。

 自分たちの話している言葉を表記したいという気持ちは、文字表現に関わる人間の原初的欲求だといえる。高木の工夫の根にある核心の欲求は、言葉を発したいという人間の原初的欲求・始源の欲求にそのまま連なっている。高木は朗読活動にも力を注いだというが、それは「声」に敏感なこの詩人にあっては、当然の行為であったといえるだろう。

 東北弁で詩を書く、東北弁で詩を朗読するという行為は、これまでともすれば不当な扱いをうけがちだったのではないかと思う。自分の中にも、これまで方言で詩を書くことを軽視する気持ちがなかったかといえば嘘になる。

 しかし、自分はこれからは高木恭造にならって方言で詩を書き、朗読するということにチャレンジしてみたいと思っている。その理由は、もちろん3・11の震災の問題と絡んでいる。先の3・11の震災・津波災害と、それに伴う原子力災害は、東北がいかに中央の利権にがんじがらめにされているかという問題を浮き彫りにした。これらの政治経済的な問題は、すぐには解決しないだろう。もちろん放射性物質の汚染の問題もある。これらの問題に直接詩が関わることはなかなか難しい。

 しかし、自分たちの言葉で自分たちの思いを表現することは、それらの問題と比べて取り組みやすい。

 方言で詩を書くということが、自分たちの立ち位置の再確認にもなるし、なまなましい共同体の声を取り入れることにもなる。

もしかすると東北弁が笑いを誘う言葉遣いであることも逆に有利に働くかもしれない。人は楽しい、笑顔になれるものに親しみを感じるものだから。東北弁につきまとう、純朴さ、単純さ、滑稽さなどを、この際存分に活用してしまえばいい。東北弁をリスペクトする姿勢を打ち立てること、異質な言葉による表現は穏やかな表現ではあっても根本的な抵抗になるはずだ。東北人は古くは蝦夷であった。中央の大和民族にとって東北人は異民族であったわけだ。でも、だがらこそ見えでくるものがあんだぞい。中央の近代的な文化が見えねぐしぢまってるものが、トーホグ弁で読み、書き、叫ぶことによって、見ェでくるんでねえがな。オラは最近そんなふに思ってんだげんちょな。

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