全集の年譜によれば、1899年、大分市生まれ。父親は官僚(警察)で、母親は後妻だった。異母兄2人がいて、戸籍上は4男である。父親の転勤に従い、長崎、東京、京城、松江、東京、豊橋、京都、東京と転々と居を移し、疎開先の岩根沢から豊橋へと移り住んだ。時に49才である。1974年75才で亡くなるまでこの地に住んだ。このうち、わたしが謦咳に接し得たのは、60年代後半の5~6年のあいだのことである。
大柄で象のような目をした大詩人。その柔和な外見とは必ずしも一致しない繊細な人であったことは、多くの友人知人が語ってくれる。エッセイ類を読むと良く分かるように、結構歯に衣着せぬ毒舌家でもあったようだ。わたしも何度か叱られた。恥ずかしいからここには書かないが、田舎者ぶりを見とがめられたのだった。
海が好きで、航海にあこがれていた。学生は、話の接ぎ穂に困ると、帆船に話を振った。
そして、質問もないのに、ぞろぞろと金魚のフンをやったものだった。
思い出話は尽きないが、話題を元に戻そう。
こうも一か所に留まれない生育期を過ごしたのであれば、丸山には当然故郷などというものはなかった。転居に次ぐ転居。土地の風俗や習慣に育まれるという状況は、あらかじめ奪われていた、と言って良い。現在以上に、言葉も通じず風習にも馴染めない子供の暮らしは、さぞ孤独であったろう。
『鶴の葬式』に、とても象徴的な詩がある。
夕暮
洋燈(ランプ)を點(つ)けると
洋燈はすぐに叫んだ
――むかふの闇が見えない
見えない
むかふの闇に置くと
なほ大聲で喚(わめ)いた
――いま居た所が暗くなった
暗くなった
蝙蝠(かうもり)が笑つた
蝙蝠ははざまの世界に生息し、状況次第で都合の良い方に味方する、ということになっている。蝙蝠が昼日中大手を振って飛行しないのは、視力が極端に弱いという身体的ハンディのせいで、性格が悪いからと言うわけではない。正直だが我侭で利己的な洋燈の主張を、蝙蝠はうすく笑う(この笑いは哄笑では無論ない)のだった。
丸山薫の都会的な「知」の在りようが窺われて、大好きな一篇である。