自由詩時評 第72回 野村喜和夫

 1960年代末から思潮社が刊行している現代詩文庫は、今日の代表的詩人を網羅しつつすでに200巻近くにまで達し、詩のアーカイブとして空前の規模を誇っているが、このたび、その195巻から198巻までが同時刊行された。世俗的にいうなら、この現代詩文庫に入ることは詩人をめざす者にとってひとつの目標である。おおむね時系列的に単行本詩集の作品が掲出され、詩人論や作品論もつくことによって、詩人としての全体像がまがりなりにも姿をあらわすから、読者にとってはありがたいし、書き手は書き手で、なんとなく一人前の詩人として認知されたような、そんな気分にさせられる。

 さて、その195巻から198巻。それぞれ、松尾真由美、川口晴美、中本道代、倉田比羽子。すべて女性である。倉田と中本はいわゆる全共闘世代、松尾と川口はその一回りぐらい下の世代に属する。

 すべて女性であるというのは、偶然にしては出来過ぎだが、それゆえふた昔ほど前ならばこの偶然を「女性詩」としてくくり、ジェンダーへの問いを突出させた時代の傾向をそこに読み取ることもできたはずだが(その代表が、「産む性」を大胆に表現した伊藤比呂美であったのはいうまでもない)、いまはもうそんなことをしてもあまり意味がないだろう。彼女たちはそういう時代をくぐり抜け、淘汰されてきた真の実力派である。あるいは、ジェンダーが喧伝されていた頃にはむしろ目立たなかった人たちだ。

 とはいえ、彼女たちが女性であることの意味は依然として大きいのではないか。そう思う。そこには、筋張ったマッチョな言語感覚や想像力ではとうてい及びがたいしなやかな詩的宇宙が息づいているのだ。若干のフレーズを引用しつつ、各詩人の特徴を描き出してみよう。

 松尾真由美。このひとの言葉の繰り出し方はなんのてらいもなく正統ポエジーであり、そこが魅力的である。ひとことでいえば、隠喩を駆使した愛という名の関係性の精妙な表出。「そうして/交わりの後/儚い尾をひきずり/密室のような/淵をめぐり/かすかに/雨音を聴く/半睡の夜の旋律/ほそい糸を結わえ/緩やかなぬかるみに転がり/変形の脚をかかえて/私はいっそう淫らな所与にたゆたう」(「雨期に溺れるかすかな胚芽」)

 逆に川口晴美は、散文化をおそれない文体の冒険を通して、他者や都市とのインターフェースの場を探求してゆく。「指は紙を離れ/秋のテーブルの葡萄をひと粒つまむ/塞がれて/あまく苦く深まった水を/夏のくちづけに似せて唇へ運ぶと/夜の光を連れて滴り/半島のような腕をたどって/冷えた地図に/わたしの熱を小さくまるく記していった」。なにげない身体の現実がこのように言語されてゆくプロセスは、彼女ならではのものであろう。

 中本道代。奥ゆかしいたたずまいのひとだが、なかなかどうして、詩においては半端ない幻視者としての顔をのぞかせる。その、松尾とも川口とも対極的な簡潔きわまりない言葉で紡ぎ出される、秘めやかにしてエロス的な生命幻想。「蟹が泡を吹く/私たちは票の踊りを踊る/砂の上に尿の痕跡/私たちは岩の上に腹ばう/大人を首を吊る/蛇が泳いでいく/私たちは決して溺死しない/私たちははだしだから/私たちは淫らな遊びを淫らと思わずにする/靴は遠い町のショウウインドウの中で眠る/さらに遠い町ではキノコ雲の幻がたちのぼる/私たちは結婚した」

 こうしてみてくると、松尾、川口、中本のいずれの特徴も言葉の広い意味での女性性の発現であるといえる。倉田比羽子だけがやや異質だ。場合によってはきわめて思弁的に「世界」と「私」とのかかわりを主題化するこの詩人は、ある意味では男性/女性の二項対立をも突き抜けた比類のない境地に達しているといえる。その全貌を今日ようやく知ることができるのは、現代詩全体にとっても大きな悦びである。とはいえ、その倉田比羽子でさえ、そのゆらぎに満ちた詩の行は、意味の一元化という男性的収束をどこまでも逃れていくようではないか。「わたしは死んだか? と問う声低く、わたしが通過することのできる敷居に蠢く影、死──母がささえてきた死の域をわたしは生き延びてゆくにちがいない」

 なお、この倉田作品の引用にも示されているように、彼女たちは、程度の差こそあれ「母」を、「母子関係」を、詩の空間のどこかにひそませている。小説でも鹿島田真希や赤坂真理の近作にその傾向は認められ、ひっくるめて、ミトコンドリア系とでも呼ぶべきか。入れ替わりに、あたかもエディプス的主題は昭和のごとく遠くなりつつあるのかもしれない。

 だが、留保もまた書き添えておかなければならない。昭和と平成を生き抜いてきたひとりの老男性詩人が、なお衰えない筆勢で記憶と現在を問題にしつづけているからである。辻井といえば、よく知られているように、その若き日に革命運動に身を投じたあと、長らく実業家として消費社会を先導してきた。そのさらに過去には、軍国少年として少なからぬ死者を見送ったのだろう。そうした経験をふまえて、詩人としては、現在を生きる自己と記憶すなわち歴史に引き戻される自己との相克を一貫してテーマとしてきたが、今度の詩集ではさらに、3・11の破局や遠くない自己の死をみつめる意識が加わり、様相はいちだんと複雑さを帯びている。

 いかに死ぬべきか。それは結局のところ「生を生たらしめる生きかた」に帰着する。平凡な結論だが、そこにいたるプロセスこそが重視されるべきだろう。「別れの研究」から「終章」まで、全8章からなる長編連作詩。それはそのまま、作者の入院から退院までの時間に対応している。ハイライトは、病院のベッドに横たわる詩人の前を、繃帯を巻いた死者たちが通り過ぎていくという幻視的場面で、それを核に、いまの時代の空気から種々の文学的記憶まで巻き込んで展開する批判的詩行は、長らく分裂的な実存を生きてきた詩人ならではの底知れぬ衝迫力を伝えてくるかのようだ。




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