- 自由詩時評 第3回の続編になります
榎本櫻湖のこの詩で絶えず問題になっている「文字」とは何か? 「*上演に際しての但し書き」にあるように、「文字」はまず「蠢く」ものだ(「文字はつねに蠕動する主体として蠢き」)。「陰茎するアイデンティファイ ――あらゆる文字のための一幕のパントマイム――」という散文詩群が「蠢動」という語で始まっていることは意義深い。「蠢き」から「精液」が「迸る」と言うこともできるが(「下腹部で蟠る蠢きの瑞々しさに、今にも迸る精液」)、何よりも「文字」は「精液」であり(「《夥しい精液という文字の海に溺れる世界でもっとも醜い美少年という文字》」)、より正確には、恐らく、蠢く「精虫」なのだ(「《ひと滴の精液のなかに潜む数多の精虫の喘ぎを、顫えを、蠢く音楽を聴く、言葉の群れ》」)。「少年たちの精液」でもあり「文字群」でもある「微粒子の集積」の中に溺れ埋もれて行くという夢=テクスト的実践がこの散文詩を書かせている。そうした文字の連鎖の中に時に「解剖されるのを待つ腐敗した貘の剥製」というような異様で暴力的とも言えるイメージが現われては消えて行く。「……頽れる手前の渦巻きの中央にひときわ煌々と潤びる薔薇の芳香を放つ精液がひと滴、彷徨える少年から零れるまろやかな膠状の夢の迸りに、解剖されるのを待つ腐敗した貘の剥製が仰向けになって宙に浮いているのを、砕ける下腹部の媚態に拐かされながらも羨望と嫉妬に塗れた汚穢のさなかの文字群は、密やかに震える微粒子の集積として烈風にどよめき怒濤にざわめき、たった一滴の泉に飛び込む虚ろな変体仮名の鬱屈した額、踊り字に雑じってもはや意味をも持たない破綻の記号がうねる螺鈿の荒野、〈私はつねに新鮮な少年たちの精液に埋もれ、そして溺れている愚かな個である〉、[……]」
「文字」が「文字」を「精液」として隠喩化すること、ここに榎本櫻湖の詩の無視できない一面があることは確かだろう。しかし、他方で、詩人が「精液という文字」、「美少年という文字」(「《夥しい精液という文字の海に溺れる世界でもっとも醜い美少年という文字》」)、「少年たちという文字」(「[……]静かな泉で沐浴する少年たちは、〈少年たち〉という文字は、緩やかな眠りの怠惰な歓びのほうへとひきよせられて、[……]」)という言い方をしていることにも注意せねばならない。つまり、精液以前の精液、精液ですらない何かが精液として文字化され、少年たちですらない少年たち以前の何かが文字化されて少年となるということだ。榎本櫻湖の言う「パントマイム」とは実はこのこと、つまり文字以前の「身体」を「脱身体」化し「アイデンティファイ」することを意味している。再び作品末尾に付された「*上演に際しての但し書き」を読んでみよう。「あなたがたは、それぞれが独立した一個の文字としてあるべきで、文字はつねに蠕動する主体として蠢き、それであっても舞台のうえにおいては、ときどきはなにかしらの意味を持たされて束の間、文字としての本来の形状に固定されるのだが、(中略)それでも緩やかに変容しつづけているのだということを忘れてはならないし、縫いつけられた言葉を模倣するように肢体を絶えず悶えさせることに最善の注意を払いながら、あなたがたのしなやかな体躯は、書きつけられてしまった愚かなこれらを前景化するという愚行の一助となってしまうことに嘆いているとしても、誰も咎めるものはいないだろう。/これらがパントマイムであるという事実に疑義を唱えるものもあるかもしれないが、それにしても舞踏でも演劇でもないことは論を俟たず、なぜなら純粋な、文字という作為されそれぞれに固有の意味を持たされた特殊な記号群を模写するという行為は、いずれにせよ身体による脱身体への試みとして現出せざるを得ないだろうし、とするならば、これは紛れもなく、パントマイムでしかあり得ないのだ。」」ここで「あなたがたは、それぞれが独立した一個の文字としてあるべきで」と命令口調で語り、精液以前の精液、少年たち以前の少年たちに「一個の文字としてあるべき」こと、「言葉を模倣する」こと、「文字という」「特殊な記号群を模写する」こと、つまり「精液という文字」、「〈少年たち〉という文字」に自身を「アイデンティファイ」し「脱身体」化するという「パントマイム」を演ずるように唆すのは、ラカン流に言えば大文字の他者の欲望、つまり、象徴的なるもの、言語の語る声に他ならない。平たく言えば、精液は「精液という文字」がなければ精液ではないし、少年たちは「〈少年たち〉という文字」がなければ少年たちにはなれないので、精液や少年たち、あるいはより一般的に言って主体は自ら文字であることを引き受けて、その「身体」は「脱身体」化され廃棄されながら言語の秩序・象徴界に入って行かなくてはならない、ということだ。
6月10日号 後記 | 詩客 SHIKAKU - 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト
on 6月 10th, 2011
@ :
[…] 今回の福田拓也さんによる自由詩時評は、第3号の時評の続き。榎本櫻湖さんの作品の精緻な分析です。いわき出身の草野心平の詩を引用した財部鳥子さんの作品の美しさは詩でしかでき […]