その時、何を書かなかったか
中村汀女に『ふるさとの菓子』という著書がある。各地の名菓を俳句とともに紹介するエッセイ集である。発行は昭和三〇年。いま、僕の手元に『現代俳句集』の第二巻がある。こちらは昭和三一年発行のアンソロジーである。目次を開くと鈴木六林男「吹田操車場」、高柳重信「罪囚植民地」のほか金子兜太や佐藤鬼房の名も見られ、いわゆる戦後派の作家たちの華々しい活躍を垣間見ることができる。僕は昭和三〇年代をほとんどこうした資料によってしか知ることができない。資料には、あるいは相対的な価値の比重というものが存在するのかもしれないが、今の僕にとっては『ふるさとの菓子』も『現代俳句集』もともに大切なものである。そう思うのはたとえば、『ふるさとの菓子』の次のような文章に行き当たった時だ。
終戦後の五家宝は、手ごたえのない味で、はかなくて、そのはかなさをまたあきらめねばならなかったが、月日は五家宝を元の味に返したようだ。しんわりと腰が強く、かたくも、柔らかくもない歯ざわりは親しめる。鼎座、理に落ちぬ話、隠すなき暮らしのことにも触れ合い、窓に見える春の田にもう水が光る。こんな数刻、二、三本の五家宝は気軽でおいしい。
春惜しむ田畦は細く柔かく
「社会性俳句」や「前衛俳句」と呼ばれた俳句表現はこうした文章の流通する時代に生まれたのであって、表現の仕方こそ違うが、汀女の文章もそうした俳句表現も「戦後」の時代感覚を表明したものとして重要であると思う。汀女は「社会性俳句」や「前衛俳句」からは遠い存在であったが、それは汀女にとってそれらが「書かなくてよいもの」だったからに違いない。「何を書くか」という問題は各々の作家にとってきわめて重要な命題であるが、同時にその命題の背後には「何を書かないか」という問題も存在するはずである。そして「何を書かないか」という作家的意志は、「何を書けないか」という作家の限界と鋭く対立しつつ、しかし根深く関係するものではあるまいか。
こんなことを思ったのは、先頃刊行された、三田完の小説『草の花』(文芸春秋)を読んだためだ。本作は『俳風三麗花』の続編であり、昭和十年から二二年までの日本と満洲を舞台として、女医の池内壽子、新進の科学者の妻である梓ちゑ、浅草芸者の松太郎の三人を中心に展開する物語である。三人は日暮里渡辺町の秋野暮愁庵で行われる月例句会で知り合い、以後交流を深めてきた仲であった。
本作はあくまでも三人の女性の物語であって、俳句表現史的な記述はほとんどといっていいほどなされていない。彼女たちにとっては、たとえば『白い夏野』よりも二・二六事件に関わった鏑木中尉と壽子とのかなわぬ恋のほうが重要であり、第二芸術論よりも暮愁庵に戦前と変わらぬ俳句仲間が以前と同様に集うことのほうが重要なのである。だから、戦中の俳句弾圧や新興俳句運動などもいわば余計な話にすぎない。実際、本作では昭和一〇年から同二二年までが舞台となっているが、実のところ昭和一二年七月の盧溝橋事件から同二〇年八月一五日までの記述が抜け落ちている。これは必ずしも彼女たちが日中戦争をはじめとする歴史的事象と無縁に生きたことを意味しているわけではなかろう。彼女たちもまた歴史のうねりのなかに生きていたのだが、その一方で、この間に存在したはずの諸々の俳句史的事象は壽子やちゑや松太郎の俳句には関係がなかったようだ。すなわち彼女たちはそれぞれに「俳句」を携えつつ彼女たちの歴史を生きたが、それは俳句表現史とは異なる次元の生だったのである。そしてある意味でごく当たり前のこの感覚が、僕にはとても重要であるように思われる。
本作のハイライトは、昭和一一年八月二二日に満洲国皇帝溥儀の御前で行われた句会の場面であろう。壽子はこの句会で溥儀から特選に選ばれる。
「…陛下の特選を申し上げます。『水の帯まじはりゆかし星祭』でございます。君子の交わりは淡きこと水の如し―とは荘子の言。牽牛織女の交わりも、日満両国の交わりも、涼しき水のごとく流れるものでありたい、とのありがたいお言葉でございます」
書記官の言葉に、一同は深々と頭を垂れる。とりわけ壽子は全身が痺れたような心地になる。右から松太郎さんの手が、左からみすゞちゃんの手が、壽子の肩に触れた。じっと頭を下げたまま、感激の涙が机にぽたぽたと滴った。
ここでの壽子の涙は、本来厳しく問い直すべき性質のものであろう。すなわち日本の国家戦略上の目論見にほとんど気づいていないどころか、暗号解読のような読解をされて恥じない壽子は自らの表現行為に対してあまりに無自覚なのである。その意味で壽子の涙はずいぶんと安っぽい。だが、そんな指摘は壽子自身にとってどれほど重要であろうか。むしろここで壽子にとって大事なのは、溥儀から特選を下賜されたという状況そのものである。それ以上のことには気づく必要がないし、そうした自覚をもったうえで状況を撃つような何がしかの言葉を俳句として書きつけるようなことは、はじめから壽子の意志の埒外にあったろう。ここに壽子にとっての「書かなくてよいもの」の問題が露呈されている。
『草の花』にはその他にも句会の場面が描かれているが、ここではもう一つ、鏑木誠一中尉が初めて暮愁庵句会に参加した場面をとりあげてみたい。中尉はこの句会で「散る影の鏡なるらむ後の月」という句を投ずるものの、暮愁をはじめ、その場にいる誰もがこの句を解釈することができない。そこで中尉は次のように説明する。
「散る影というのは、おのれの姿です」
なんら力むこともなく、中尉はやわらかな声音で応えた。
「…わたくしたち軍人は死ぬのが仕事です。わたくしは、いつもおのれの死ぬ瞬間を想像しながら日々を過ごしています」
(略)
「月では兎が餅をついていると、わたくしも幼いころから教えられて育ちました。たしかに皎々と輝く名月には兎のような影が見えます。しかし、軍人になってからのわたくしには、それが兎の姿ではなく、敵弾に撃たれて死ぬ瞬間の自分の影のように思えてなりません」
(略)
沈黙がつづく座敷で暮愁先生が小さく咳いた。
「なるほど。軍人の最期の姿を名月の光のなかに見るきみの思いはよくわかった。しかし、あえて〈後の月〉と結びつけたことには、どんな意図があったのかな」
中尉は少年のような顔で笑った。
「それが本日の席題だったからです。すみません、季語との取り合わせをさほど厳密に考えてはいませんでした。ただ…」
鏑木中尉は一瞬の間を置き、自分を納得させるように小さくうなずいた。
「〈後の月〉という響きが、なんとなく死への覚悟にふさわしいと思いました。わが身が滅ぶとも、そののち、月は未来永劫この大地を照らすのですから」
結局、中尉の句は暮愁らと異なり季語の本意や写生的な方法をふまえた詠みかたをしていなかったがために、その場にいる誰もが読み解くことができなかったのである。ここに中尉にとっての「書かなくてよいもの」の問題がある。そしてこれを反転させたところに、暮愁たちにとっての「書かなくてよいもの」もまた存在する。いわば中尉の句が暮愁らの表現のありようを逆説的に照らし出し、一方で暮愁らの読みもまた中尉の表現のありようを逆説的に照らし出しているのである。彼らのコミュニケーション上の不幸は、彼らがこの二者を両極とする磁場のなかで否応なしに俳句を詠み、読んでいたことにある。そしてこうした事態は何も彼らにのみ生じるようなことではあるまい。
そもそも、何かを書きつける行為とは、そこに何がしかを生み出す行為であると同時に、そこに書かれなかった多くのものを捨てていく行為の謂であろう。しかし、たとえば僕たちが先の『現代俳句集』や『現代俳句全集』(立風書房)などにおいて戦後派やそれに続く世代の営為と対峙するとき、そこに書かれていることばかりにこだわりすぎるということはなかっただろうか。「鈴木六林男」を読むことは、「鈴木六林男」を思考するうえでどれほど有効だったろうか。「金子兜太」を読むことは「金子兜太」を思考するうえでどれほど有効だったろうか。むしろ彼らが「書かなくてよいもの」として捨て去ったものへと目を向けることで、その営為の本質が見えてくるということはないだろうか。実際、「社会性俳句」や「前衛俳句」などは、むしろ彼らの営為に与しなかった者の営為のほうへと目をむけることで、ちょうど合わせ鏡を覗き込んだ時のようにその本質が不意に見えてくることがあるように思われるのである。
執筆者紹介
外山一機(とやま・かずき)
昭和五八年一〇月群馬県生まれ。
平成一二年から二年間、上毛新聞の「ジュニア俳壇」(鈴木伸一、林桂共選)に投句。平成一六年から同人誌『鬣TATEGAMI』同人。
共著に『新撰21』(邑書林)。