認識を捨てることから
前回紹介した「東京ポエトリーフェスティバル」の翌日、日本文藝家協会の主催で、フェスティバルのために来日した、二人のアメリカから来た詩人のトークがあった。ヨハネス・グランソンさんと、ジョイエル・ミックスウイニーさん。聞き手は作家の中沢けいさんだった。二人は「アクションブックス」という、大手ではあまり紹介されることのない、英語圏以外の詩人の選集を出版する、出版社を経営している。アメリカとそれぞれの詩人の母国の、文化的補助金で本を出版し、ネットのネットワークで売っていくという、試みを続けている。日本の伊藤比呂美など、様ざまな国の詩人の本が刊行されていて、地味ながらアメリカの詩の、可能性の新しい側面をひらいている仕事だ。
自分たちの出版したい詩集を出版する。
それが基本だという。もちろん、まったく売れない物を出版するわけではないが、利潤を第一とする企業とは異なる点から、発想されていることがおもしろい。詩集は手に取ると手作り感があり、二人の詩に対する思いが伝わってくる。話はアメリカの出版や書店の事情をはじめ、多岐に渡ったが、紙面の関係でいちいちここには記さない。ただ面白かったのは、「日本の詩集の自費出版」について、二人の方から逆に質問があったことだ。
アメリカにはほとんど自費出版はない。調べると一社だけあったが、それは非難の対象になった。
日本とは大きな違いである。日本では詩歌に関しては、自費出版はほぼ当然と考えられている。ある程度著名になれば、さすがに自費出版ではないが、企画ではなく買取がほとんどだ。企画出版される詩集はごく稀である。アメリカの事情を知ると、日本の詩歌の事情がいかに異様か、ということが分かってくる。もちろん、それなりに名のある出版社は、信頼もあるので誰でもが出版できるわけではない(よく知られた出版社が自費で出版すること自身が、すでに特殊だが)。しかし、それとは別に日本には、金さえ出せば誰でもが出版できる、多くの出版社がある。一見間口が広くいいように思えるかもしれないが、そのことが日本の詩歌の質を低下し、しいてはその地位すら落としていると、いえないだろうか。それゆえに、入学は簡単だか卒業は難しい大学のように、自由詩とは(結社の問題があるので、短歌俳句はここでは保留にする)、実は他のどの分野の創作よりも、狭き門なのかもしれない。他の国の事情と比べてみると、このような面が見えてくる。
詩の言葉は弱くなったから可能性がある。
二人の発言の中で、ヨハネスさんのいったこのような言葉が、印象に残った。「詩の力は過去に比べて弱っている」、という話に対して出た言葉だ。その弱さゆえに言葉は柔らかく、多様の可能性を持つというのだ。なるほどまさに「アクションブックス」の精神と、思った。それは二人の詩にも共通する特徴だ。「東京ポエトリーフェスティバル」で紹介された二人の詩を引用してみる。まずはヨハネスさん。
Spine through
in rail wind head
eclipse arrival
start with a bang
the ultra noise
engagement
ど根性が 通ります
追い風の 脳天に
日蝕の 届け物です
トーンと 始まります
ウルトラの 音が
合戦乱戦
(「鳥瞰図」部分)
次にジョイエルさん。
Up on the wire,the young body
Makes a bend like a weve with its body of knowledge
Then makes a bend like a lens. Thought and light,
Those carcinogens make eyes
Through hand plastic at the fetal body
ワイヤーの上の 若い身体は
知性の骨組と いっしょに曲がり、
そして、レンズのように歪む。思考と光、
そんな発癌性物質が 固いプラスチックごしに
眺める、胎児のような身体を。
(「キルゾール2」部分)
それぞれの詩の冒頭の数行を引用した。ジェフリー・アングルスと新井高子の共訳だ。詩の雰囲気も伝える実に良い訳なので、その訳を基にして話を進める。言葉の動きは前者が躓くような感があり、後者は失踪する様子でまったく異なるが、共通するのは屈曲する無理な言葉の接続だ。前者はまず最初から、「ど根性」という砕けた口語調の概念が、「通ります」という、奇妙に実感のある観念から書き始められる。言葉は脱臼を重ねながら短く切り取られ、不定期な波となって伝わってくる。一方、後者は作者も、「ぎりぎりまで追い詰めてから書く」と、いっているように、押しつぶされたエネルギーが、一挙に放出されるような、言葉の動きだ。前者よりは言葉も多く散文的だが、やはり固定した意味に落ち着いていない。次々に繰り出される言葉は、どこにつながるのか予想できず、まったく展開の分からない物語のように、スリリングに進行する。共通するのは、一般化している言葉の展開を捨てていることだ。言い換えると認識ではなく、自らの感触によって捉え言葉にしようとしている。それゆえに、まさに言葉は弱い力として機能している。認識のはじめに戻って考え、手探りで進めていく様は、二人にとって詩の言葉も編集も同じなのだろう。
もちろん、日本ではすぐれた詩は、認識を取り払って書かれているのだが、一般に出回っているいる詩はどうだろうか。しばらく前にベストセラーになった詩の第二弾、柴田トヨ『百歳』(飛鳥新社)が刊行されたが、正直なところ、表題作を読んだだけで呆れた。
奉公 戦争 結婚 出産 貧しい生活 いじめられたり 悩んだり 辛(つら)いこと 悲しいことも あったけれど 空は 夢を育み 花は 心に潤いを 風の囁(ささや)きは 幾たび 私を 励ましてくれたことだろう。
引用していていやになってくる。このような言葉は何もいっていないに等しい。ここから浮かび上がるのは、具体性を喪失した典型的な安っぽい、類型の生でしかない。詩(詩とすらいいたくないが)の基底にあるのは、もっとも薄められた認識以外ではない。このような言葉は一見癒しのようでありながら、安全ではないものを安全というように、現実の確かな把握を曇らせるものでしかない。もちろん、このような詩は柴田に限らず、同人誌を紐解けば分かるが、多く書かれている。目くじらを立てることではない。しかし、問題はあたかも今の詩の代表のように、様ざまなメディアが取り上げ、読者もそれを鵜呑みにすることだ。実際、前詩集はNHKで特集が組まれ、多くのメディアで取り上げられた。またこの詩集も、「朝日新聞」の読書欄の「おすすめ」にあげられている。少なくとも、それはいかにメディアが、詩を大切にしていないかの、現れであり、しいてはこの国の文化水準の低さにまでつながる。
そうこう考えている時、朝日新聞9月17日に、「政治家と言葉」に関する、和合亮一の文章が掲載された。和合は詩を書く立場から、今回の被災問題を基底に誠実に語っていた。しかし、私は在る一行で立ちどまった。
鉢呂さんの「放射能をつけちゃうぞ」という発言は、そこに何らかの温度差があったなら残念です。
ここだと思った。この発言は、いわずと知れた、鉢呂前経済産業相の辞任につながった、言葉のことだ。しかし、鉢呂は反原発の傾向が強く、様ざまな陰謀があり、この発言も確証のない捏造の可能性が高いのは、今はほぼ間違いないと考えられている。しかし、和合はそこに疑いもなく、このような発言をした。まさに、いまメディアが求めているのは、このような疑いない認識の発言なのだろう。しかし、詩とはその対極にあるはずだ。ヨハネスさんやジョイエルさんの詩や行動は、そのようなもうひとつの詩の可能性を示している。認識を疑い徹底的に感触に戻る。そこからしか現在を正確に語る表現できない。