「上野ちづこ」のいない風景
『現代思想』(12月臨時増刊号)が上野千鶴子を特集している。今年、定年を前にして東大を去りWAN(Women’s Action Network)理事長となった上野のこれまでの仕事を様々な角度から振り返るものだ。この特集に鶴見俊輔が「上野千鶴子の軌跡」と題するエッセイを寄せている。
数年たって『黄金郷』(深夜叢書、一九九〇年)という句集を送ってくれた。それを読むと、「処女ら狷介の眼にてバナナの衣剥く」というような、今も心に残る句が入っている。それとともに心に残っているのは、自由奔放なこの人に、仲間がいたことである。「せきをしてもひとり」(尾崎放哉)のような孤独の才能ではなく、このころ、すでに自作の批評をかわす仲間がいた。そのことは半世紀かわらず、女性学の道を歩んで、いつも仲間がいた。老後を迎える女性として自分自身で考え、仲間と共に交わるウーマンリブの道を歩んで、現在に至る。
上野千鶴子すなわち上野ちづこは一九七二年から約十年の間俳句に携わっていた。『黄金郷(エル・ドラド)』は上野が俳句をやめてから八年後、かつて京大俳句会で上野と活動を共にしていた江里昭彦の編集によって刊行された句集である。鶴見のいう「仲間」とは江里をはじめとする京大俳句会のメンバーを指すのだろう。彼女は夭逝の俳人であった。三十二歳で筆を折って後、上野ちづこはついに戻ってこなかったのである。いわく「『俳人』上野ちづこの死と『社会学者・フェミニスト・評論家』上野千鶴子の登場とは、時期を同じくしている」(上野ちづこ「十年の後―あとがき」『黄金郷』)。
俳句をやめた者がいれば、俳句をやめなかった者もいる。上野ちづこの最初にして最後の句集の編集に尽力した江里昭彦もまたその一人であろう。江里は「上野ちづこ」から見事にテイク・オフした「上野千鶴子」を遠望して、次のように言う。
無芸無能ならぬ上野ちづこをして「この一筋」にぐずぐず関わらせつづけた、その責任の一端は、われわれの上にあるのだ。いま、彼女は、かつての句友に対し、なつかしさとともに、いまいましさとうっとうしさを抱いているのに違いない。(「上野千鶴子の〈反〉女流俳句 あるいは跡を濁して飛び去った鳥について」『アサヒグラフ』増刊「女流俳句の世界」、一九八六)
江里には「ちづこ忌に購う七色の薔薇の喉」の句もある。江里のこの言葉には「無芸無能ならぬ上野ちづこをして『この一筋』にぐずぐず関わらせつづけた」「われわれ」の一人としての自負があったはずである。俳人「上野ちづこ」の誕生には京大俳句会という場の存在が不可欠であった。裏を返せば、上野ちづこの仕事が提起する問題を受けとめられるだけの人間が当時―そして今も―どれだけいただろうか。
欲望の沖へ 髪を濡らして
まず一本吸ってからチュトワイエ
卵ゆだるまで コロンブスの午睡
母に摘む 多産系のきのこ
いわば痴情の愛のなつかしさ雪こんこ
上野ちづこは俳句形式における表現の定型化に自覚的であろうとした。俳句形式で表現することによっていつのまにか「なかったこと」にされてしまう情念や感性を、いま一度俳句形式にのせようとしたのだ。上野はまた、俳句形式における表現主体について問い続け、やがて当時注目を浴びていたコピーの表現へと接近する。「私」の表現であることからいかに脱するか。『京大俳句』終刊号(一九八三年)で上野は言う。
この最短詩型は、自己完結を許さないことで、私を他者へと開きつづけました。私はことばが他者のものであること、というより、他者と私とのあいだのものであることに次第に目覚めていって、自分じしんという悪夢に耽ることから、解かれていったのです。(「十年のルネッサンス」)
『京大俳句』終刊とともに「上野ちづこ」もその死を迎える。それにしても、俳人「上野ちづこ」の志とは何だったのだろうか。自ら述べるように、上野は俳句を詠み、読む行為を通じて言葉への認識を深め、他者へと開かれた文体を獲得していった。上野はその切実な表現への意志のもとに「俳句」を問い続けたのであり、それは決して「俳句ってたのしい」でも「俳句ラブ」でもなかった。そして上野ちづこは死を選んだ。選ぶことで「上野千鶴子」になったのだ。僕らは僕らのために俳人としての死を選ぶことができるだろうか。僕らはともすると、まるでそのような選択肢があったことなど忘れてしまったかのような顔つきで俳句と対峙してはいなかっただろうか。
ところで、この終刊号で、当時同誌の編集長でもあった江里は次のように書いている。
一九八三年が、俳句史にとってこれほど画期的な年になろうとは、誰が予想したでしょう。さようなら、寺山修司。さようなら、高柳重信。さようなら、中村草田男。そして、さようなら、わたしたちの「京大俳句」。その多産(寺山の場合は、日の目を見ることのなかった多産ですが)において、あなた方は正真正銘の歴史でした。
しかし、消え去るものがある一方で、新たな力強い動きが顕著になったのも、今年の特徴です。こんにちは、『猟常記』。こんにちは、『俳句の現在』。いまや、俳句を活性化せんとする潮流が確実に形成されつつあるのです。
現在からみると、その語り口の明るさに驚くばかりだ。しかしたしかにこの年、すなわち夏石番矢の句集『猟常記』や仁平勝の評論集『俳句の現在』が刊行された一九八三年は、ニューウェーヴの俳人たちの活躍が期待された年であったにちがいない。三十年近くがたったいま、かつての青年たちはすでに還暦前後の年齢を迎えようとしている。還暦という奇妙な儀式について「長期にわたった権威の座からの引退のうながしを含んでおり、また他面においては、いよいよ伝説の人としての門出を意味するようである」と述べたのは高柳重信であった(「還暦その他」『俳句評論』一九六〇・七)。けれど、かつての青年たちは、ついに「権威の座」にも「伝説の人としての門出」にもありつけそうにない。少なくとも僕にとって、僕の出生年である一九八三年とは『猟常記』の年ではなく高柳の亡くなった年であるとした方が、さしあたり自らの俳句的出自を説明する言葉としてはよほど納得できるのである。江里の言に倣えば、僕は俳句表現が「歴史」を失った後に生まれたのであって、その喪失感を抱えつつ、それでも俳句と対峙しつづけることが「僕」であるということだったのだ。そしてこのような事情は決して僕だけに特有のものではないと思う。
それにしても、個々の俳人の業績の大きさにもかかわらず、加藤郁乎や高柳重信以後の俳句史が見えてこないのはどういうわけなのだろう。彼らが「俳句を活性化せんとする潮流」をなしえなかったためであろうか。しかしこれは個々の俳人の資質の問題である以上に、場の問題であった。実際、一九八〇年代以降の総合誌が表現史を形成する機能を担わなくなったことは自明のことだ。総合誌は「上野ちづこ」も「江里昭彦」も必要としなかったし、これからも必要ではない。たとえば「ふくしま」の角川俳句賞受賞という美しいストーリーもまた、こうした文脈の上にこそ成立するものであった。俳人たちの活動が分散し見えにくくなる一方で、総合誌は俳句の作り方のノウハウを供給する媒体へと傾斜していく。俳句表現の最前線はいまや同人誌や結社誌、あるいはネット上にこそ展開されているはずだが、それがどこにあるのかを見極めるのは容易なことではない。
一方で、彼らの仕事を検証する作業を怠ったままの僕らにもむろん、その責任の一端はあるはずだ。俳句史を自らの内に立ち上げることなしに表現者たることはできまい。とすれば、誠実な表現者であろうとするとき、個々人の内なる「史」は、たえず厳しい検証と更新とを伴うものとなろう。僕らの怠慢は、僕らの上にこそ降りかかってくる。