昭和10年頃になると、後の太平洋戦争へ向けていよいよ日本の軍事的勢力が各方面に多大な影響力を持つようになっていた。文芸の世界も例外ではなく、様々な弾圧が作品や作者に向けられていたようだ。
銃口に立つ大衆の中の父 鶴彬 (1987年 『鶴彬句集』)
仲間を殺す弾丸をこさへる徹夜、徹夜
資料上、この句集の発行年は1987年なのだが、没後50年記念での刊行であり戦前の川柳としてぜひとも触れておきたいので、ここで紹介する。思想犯として検挙され29歳で獄中死することになる鶴彬は、プロレタリア川柳の旗手として、川柳史から外すことの出来ない存在である。反戦や階級闘争といった活動への抑圧がいよいよ強まっていた時期だが、「銃口」「大衆」「父」それぞれの存在がこの時代に確かにあった一場面として切り取られている。今作り続けているものは「仲間を殺す弾丸」であり、「徹夜、徹夜」とは終わらない日々を思わせると同時に、仲間の名を呼ぶ声をも思わせる。
塹壕は浅くことしの草も枯れぬ 山口誓子 (1935年 『黄旗』)
風雪に満州黄旗白く褪せぬ
『黄旗』は新興満州帝国の国旗をさし、作者が昭和9年の満州旅行から想を得た書き下ろしの句集らしい。統治下にあった満州の状況を淡々と描写しているようで、「ことしの草も」や「白く褪せぬ」に、どこか過ぎ去ったような寂寥感を感じる。建国から2〜3年ほどの時期にこのような空気を感じていたのは俳人の感性からくるものだろうか。
冬日沒る金色の女體姦せられ 山口誓子
修身にない孝行で淫売婦 鶴彬
時代の共通項というべきか、両句集にこのような句が見られる。階層や貧富の差はもちろんだが、社会の負の面についての視線を作品として書くことは当時として相当難しかったと想像できる。事実として鶴彬は反戦などの評論活動も含めて検挙・軟禁といった中でこのような作品も残していた。正しく生きることは社会が正しい方を向いてはじめて実現するという思いが強かったのではないだろうか。
子供等は浮かぶ海月に興じつつ戰争といふことを理解せず 土屋文明<(1935年 『山谷集』)
横須賀に戰争機械化を見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ
解説によると、弾圧によってプロレタリア歌人同盟が昭和7年に解散。その後伝統歌人たちに散文調の作品が増えていったという。時代の緊迫が進む中、歌人たちの危機感が現実直視の歌に向かったらしい。自らの思いをぐっと抑えながらそれでも書くべきことをギリギリまで書き込もうとする意思が伝わってくる。
正確なところはわからないが、作者がはっきりと見える短歌や俳句への弾圧がまずあって、もともと匿名性の高かった川柳への圧力は少しずれて後になったのではないだろうか。そんな中で目立つ存在であった鶴彬に軍部の矛先が向いたのかもしれない。