テーマ: 同年度で読む川柳・俳句・短歌
テーマ解説
引き続き1993年発行の『新潮・10月臨時増刊 短歌・俳句・川柳101年 1892~1992』を基本資料として、戦後の三詩型の比較を行う。ただ、これまで書いてきた中で、戦前の状況をある程度踏まえていなければ「戦後」という区切りが不明瞭になるのでは?という疑問を持ったので、当初はこの「101年」分を活かす意味でも戦前・戦中について何度か書くつもりである。
なお、これまでは決まったテーマに沿って作品を選んでいたが、今後は同年度の三詩型からそれぞれピックアップしていく。このため、既出の作家作品が再度登場するかと思うが、ご容赦いただきたい。
本題
- 同年度で読む川柳・俳句・短歌(1892年)
豆腐までふるへて煑える寒の内 九七四(1892年 『古今川柳壹萬集』 骨皮道人編)
文字までふんばツて居る大丈夫 ヒダ 野景
資料の最初、1892年の作品から始めようと思う。明治~大正期に取り上げられている川柳部門の句集のほとんどは個人のものではなく「句合」などの形態で集められたものである。大西泰世氏の解説によれば、この時期は「明治狂句期」として俳諧の付合から独立した「一句立て」が支持を得るようになっている頃ということになる。つまり、後の七七なしに五七五で完結する句が川柳として確立されてきたのが、今から120~30年ほど前ということである。
冬の寒さ、あつあつの鍋の中で小刻みに揺れている豆腐を見て「豆腐までふるえて」と捉えた作者。三文字とも2本の足を大きく広げて立っているように見える「大丈夫」という言葉を「文字までふんばツて」と表現した作者。今も川柳において重要な「見つけ」の鋭さに加え、2句ともに「~まで」と主語を広げることで句外にあるもの(鍋を囲む人々や、大丈夫だよと諭されている状況など)を描く手法は、「一句立て」への傾倒に大きく寄与している。また、掲出の2句が特に似た構造なのだが、この時期の他の句でも「下五」がいわゆる「オチ」の役割を果たしている場合が多い。これも七七なしに句を完結させる手段としては当然の流れであったであろう。
一 月 墨染の我も笑はむはなの春 幸田露伴(1892年 『谷中集』)
十一月 山寺の仁王たぢろぐ吹雪かな
川柳と俳句の違いをいえば、ひとつに「オチ」の有無があげられるだろう。もちろん共に例外があるのだが、例えば先に挙げた川柳での下五が「納得」の方向へ収束していくのに対し、これら2句で「はなの春」「吹雪かな」は大きな景として拡散していく。下五へ至るまでに「こんなことがありまして」という個人の見解(ということばが適切かどうか)が表現として切り取られ、最後には大きな自然界の景へと溶け込んでいくのである。作者と読者の共有部分を川柳は「納得」に、俳句は「季景」に求めているとでも言おうか。
夏石番矢氏の解説では、本項に挙げられている13句は「僧十二ヶ月」という連作で、「後世、新興俳句のときに問題となる連作俳句を、幸田露伴は明治二十年代にすでに実行していた。
」とある。川柳における「一句立て」が出来ようかという時期に、俳句では一句の屹立を経過しながら一部の作家は「連作」にまで発展させていたということになる。競吟・遊興の中で広まった川柳と、早くから表現の意識を持った俳句との歴史差が垣間見られる。
なお、この辺りについては本誌資料の中で掲載されている座談会(川柳:大西泰世・俳句:夏石番矢・短歌:三枝昂之・司会:吉本隆明)で触れられており、機会を見てこちらで紹介したいと思っている。
よの人のまつらむ秋にあはじとやまづをみなへし花咲きにけり 樋口一葉(1892年 『戀の哥』)
途中逢戀 中々にあはずもあらば逢坂のせきとめがたき別れせましや
俳句にしても短歌にしても、この辺りに出てくる作者の名前だけはよく知っている。三枝昂之氏の解説によれば、「一葉作品もほとんどが旧派和歌の作法に従ったもの。
」ということで、古典の苦手な私には正確な読みは難しい。ただ2首目に挙げた歌は百人一首にもよく出てくる「逢坂の関」が題材で、出会いと別れや「せき(関)とめがたき」の掛詞など、学校で習った短歌の匂いがする。同じく解説に「題詠の拘束力を突破できなかったともいえるし、作り物と読まれる歌い方の中に真情を忍び込ませた巧みな詠い方ともいえる。いかにも歌の過渡期を思わせて面白い。
」とあって、短歌の変化の兆しがこのあたりに見えるらしい。それこそ平安の世には歌の善し悪しで恋の花を咲かせていたそうだが、情熱と知性の融合体=表現という見方をすれば、「巧みさ」の方向性の変化がこの時期に起こり始めたということかもしれない。