沒落のわが家の上の皆既蝕 (1950年 『雪國』 濱夢助)
無一文青空だけを味方にし
今年の5月に日本本土の広い範囲で金環日食が見られブームとなったが、このような広範囲で見られたのは932年ぶりという出来事だった。ただ北海道や沖縄地方ではたびたび観測されていて、例えば北海道近辺では1936年、43年、48年とつづけて皆既食や金環食が見られたようだ。仙台生まれの作者がこれらの皆既食を見られたかどうかはわからないが、部分日食なら見ることができただろう。さて今でこそ天体ショーとして楽しまれている日食だが、神話の時代には天変地異の最たるものとして世界中で様々に語られているように、不吉なものとして捉えられていた。日本でも江戸時代あたりまでは良くないことされていたようだが、明治時代の日食についての資料には五穀豊穰とか富貴といった記載が残っていて、この頃にはすでに庶民が日食を楽しんでいたようである。
句集『雪國』には「貧」の匂いがびっしり詰まっているのだが、そんな中で見た「皆既蝕」とはどんなものだったのだろう。唯一「味方」であった「青空」を思うと、江戸以前の日食に近い面持ちだったのかもしれない。
海へ
夜へ
河がほろびる
河口のピストル (1950年 『蕗子』 高柳重信)
川柳・短歌と比較して、この時期の俳句表現は表現そのものへ重心が寄っているように感じる。時代背景とか作者が置かれている生活環境のようなものが作品からは読み取れないのだ。これは例えば季語とか歳時記といった共通の価値観のデータベースを作品の外部に持って作句するのと同様に、単純に言語(単語・語句)自体を共通の価値として、あるいは単語が持つ意味とかイメージを媒体として作品化することを、俳句が一歩先んじて始めたのではないだろうか(最も歴史のある短歌でもずっと前に行われていたのかもしれないが)。掲出句は本来縦書きなのでHP上での横書きとは印象がまるで違うのだが、行頭の一文字ずつを拾うと
「河 河 夜 海」
という風に並ぶ。この仕掛けはこれら4つを同じ高さに置くことで、以下に続く「ほろびる」「(河)口のピストル」という言葉がより下方向へ強く引っ張られている。「ピストル」は河口の水面から見えているのではなく沈んでいっているのである。もちろんこの句のエロティックな暗喩もはっきり見て取れるのだが、多行書きの利点は句意についてよりも句に感覚的なものを付加する所にあると思う。句会・披講が根にある川柳では視覚効果の強い作品はまだまだ未成熟なのだが、こういう表現方法は積極的に学ぶべきものだと思う。
島のごと燒野に殘るわが家にすこやかに父は歸り來ましぬ (1950年 『ちまたの響』 窪田章一郎)
一等兵窪田茂二郎いづこなり戰敗れて行方知らずも
短歌については前回と同じことの繰り返しになりそうなくらい変化がない。それどころかますます個人の事情が作品に練り込まれているので、どのように書いていいのかわからない。困ったときには解説から引くのだが、作者の父・空穂は、掲出2首目に出てくる茂二郎(作者の弟)の死について五連二二九句からなる和歌史上最長の長歌に結晶させた、とある。実物を読んでいないので実際どんなものなのかはわからないのだが、そこまでするなら普通に文章にしてもいいのでは?と思うのは浅はかな考えなのだろうか。ネットで検索してもこの『捕虜の死』という長歌は相当名高いと書かれているが、私ならおそらく途中で読むのをギブアップしそうだ。