「白露」終刊について
広瀬直人主宰の「白露」が五月末に発行される六月号をもって終刊することになった。理由は主宰の病気療養により選句が難しくなったためとされているが、会員約二千人を擁する大結社の幕が降ろされることとなる。
「白露」は一九九三年三月に創刊された。前年に飯田龍太が「雲母」を終刊しているが、「白露」はその後継誌としての自覚とともに誕生したのであった。思えば、この「雲母」終刊はひとつの事件となるはずだったのである。
「雲母」終刊の三年前にあたる一九九〇年七月、当時『俳句』の編集長だった秋山みのるは同誌が創刊五〇〇号記念特別号を迎えるにあたり「結社の時代」を宣言した。
今日、結社の在り方が問われているのは、結社が新しい俳句の時代をまず作ったからである。結社が結社の発言をし、結社がリードしなければ、この世紀末という時代の十年を豊かには出来ない。今、本当の結社の時代を迎えた。(「編集帖」『俳句』一九九〇・七)
筑紫磐井はこの「結社の時代」について、一九九二年半ばまでを「結社の時代・隆盛期」すなわち「無条件に秋山のキャッチフレーズが活用された時期」とし、次のように述べている。
しかし、まさにこの時期に俳壇に暗雲激震が走る。飯田龍太の「雲母」終刊の決定である。既に知られるように、龍太は「雲母」終刊を決意し、平成4年6月下旬に結社・マスコミ関係者に終刊の意向を伝え(これは地上天国に当たる「俳句」8月号の編集の最中である)、7月号の「雲母」に終刊の辞を掲げ、8月号をもって終刊する。この中で龍太は、俳句界の態様の変化として、俳句誌の異常な増加、主宰者交替と近親者による世襲が数多く、しかもそのことが易々と行われるようになったこと。特に安易な承継は俳句の質の向上を望むとき、好ましい流行ではない、その点に関し自分の「雲母」承継にも一端の責任があるのではないか胸の痛みをおぼえた、と述べている。一見するとこれは結社の時代の終焉を告げているようにも見えた。(筑紫磐井「長編・「結社の時代」とは何であったのか」、ブログ『俳句樹』二〇一〇・一〇・一〇)
筑紫のいう「地上天国」とは、創刊四〇周年を記念して阿波野青畝・加藤楸邨の対談「俳句・愛情・結社」と「現代結社探訪–結社300」を掲載した『俳句』(一九九二年八月号)を指している。それにしても、飯田龍太の「痛み」を当時やそれ以後の俳壇ははたしてどれほどの真摯さをもって受け止めてきたか。「雲母」終刊以後を生きる僕らの目の前には、いまどのような景色が広がっているだろうか。
ここで話を「白露」に戻すと、同誌の創刊については筑紫の引いている終刊の辞のなかで、すでに龍太自身が「『雲母』に代わる新誌については、広瀬直人・福田甲子雄両氏を主軸として刊行されることになりましょう」と述べており、これが「白露」創刊を予告していたものと思われる。「雲母」終刊後、その系譜に連なる俳人の事実上の受け皿となったのが「白露」であった。換言すれば、龍太は自らの退陣後に新たな結社の立ち上がることを確認してから「雲母」終刊を宣言したのであって、ここには、「結社の時代」を生きる自らの「痛み」と大結社を率いる者としての責任との折り合いをどのようにつけるべきかという龍太の苦悩があったはずなのである。とすれば、「雲母」の終刊とは、たんなる「結社の時代」への批判ではなく、結社制度を肯定する論理を要請する行為であった。そのように考えるとき、広瀬直人が「白露」創刊号において次のように述べていることは銘記しておくべきであろう。
他人のいい句には率直に感銘し、賞められたら素直に喜び、欠点の指摘は奮発の材料にする仲間とのつながり。これが、近年話題になっている“結社の時代”を支える基盤ではなかろうかとも思うのです。(広瀬直人「『白露』創刊に当って」『白露』一九九三・三)
「結社の時代」を、あるいは「雲母」終刊以後を生きる者として、広瀬はここで自らの立ち位置を表明している。「白露」創刊は「俳句誌の異常な増加」がみられる現状に批判的でありながらも雑誌を創刊するというような、矛盾しているかのようにも見える行為であるゆえに、自らを肯定する論理を―結社の意義を再肯定する論理を必要としたのであった。「雲母」の終刊がもっていた批評性を、「白露」もまた「白露」なりに継承しようとしたのであった。
ところで、「白露」の活動を表現史的に位置づけようとするとき、それはどのようなものになるのであろうか。川名大は「雲母」の俳句志向について「四季の巡りが見せるその時々の自然の実相、原(ウア・)自然(ナトゥーア)ともいうべきものを、言葉によって掴み取ろうとするもの」としている(『現代俳句』下 ちくま学芸文庫 二〇〇一)。
をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田蛇笏
鰯雲日かげは水の音迅く 飯田龍太
稲刈つて鳥入れかはる甲斐の空 福田甲子雄
稲稔りゆつくり曇る山の国 広瀬直人
これらは伝統的な美意識によって染め上げられた季題を詠む花鳥諷詠とは一線を画するものであり、また戦後の社会性俳句などともことなる方法論によってくみあげられた俳句であった。戦後派、あるいはそれ以後の世代の仕事において、「雲母」の系譜がその重要な一角を形成していることは間違いあるまい。
思えば、最近若手俳人による蛇笏再読の試みもあった。すなわち藤田哲史編集の『傘』第三号(二〇一一・一二)の飯田蛇笏特集である。
雷やみし合歓の日南の旅人かな (明治四一年)
山晴れをふるへる斧や落葉降る (大正二年)
ある夜月に富士大形の寒さかな (大正三年)
いずれも明治一八年生まれの蛇笏の、二十代の作品である。どの句も、「大空に」の句(「大空に富士澄む罌粟の真夏かな」―外山注)と同様、緊密な言葉遣いがなされている。しかも、その緊密さは、正直に書けば、決して洗練されたものではない。書き留めようとする気持ちに言葉が慌ててついていくような、作り手の性急さが作品に表れている。蛇笏が「格調高い」代表作を作るようになるのは、実はこれから十年ほどあとのことになる。(藤田哲史「若者のすべて」)
いま若手俳人が自らの小雑誌の大部分を割いて蛇笏を特集することの意味は何だろうか。藤田は同号の編集後記において「第一号の佐藤文香特集が〈いま〉、第二号のライト・ヴァース特集が〈これから〉を意識した特集ならば、今回は、〈これまで〉にスポットライトを当てた特集です」と述べている。第一号、第二号は越智友亮との共同編集であったから必ずしも一括りにすることはできまいが、しかしながら、たとえばライト・ヴァースを〈これから〉と言い、飯田蛇笏を〈これまで〉と言う認識は実際のところかなり偏向的なものであろう(もっとも、表現史をツリー状ではなくむしろフラットなものとしてとらえ、あるいは気ままとさえ思われる態度でそこを横断しようとするのは、藤田に限ったことではなく藤田と同世代の若手俳人に少なからず見られる傾向ではなかろうか)。興味深いのは、藤田の視線が、つい先頃まで言挙げされることの多かった「飯田龍太の時代」の龍太でもなく直近の福田甲子雄や広瀬直人でもなく蛇笏にあてられているということだ。さらに言えば、藤田は「をりとりてはらりとおもきすすきかな」のような蛇笏の代表作ではなく、むしろ若書きに注目しているのであって、たとえば、ここに「雲母」「白露」と続く系譜がふるい落としてきたなにがしかを見ることも出来そうである。