赤や金の飾り文字を掲げる明るい店先に、クリスマス用のオーナメントと並んで、スノードームが売られているのを見ることができる季節になった。
楕円の半球にチープな塗り方のサンタやトナカイや、場合によっては謎のおじさんたちが数人でなにやら大工作業をしているようなモチーフが入ったもの、いかにも北欧からやってきたガラス球に品のいい小さな陶器人形の入ったものや、ドイツ製のガラスが極薄く、透明で、球が土台と僅かにしか接していない、落としたら小気味いい音を立てて割れそうなものなど、ある程度種類は似通っているが、そればかりを気にして歩いていると次から次へと目に飛び込んでくる。なによりもあの球形のフォルムと、モチーフとガラスの間に隙間なく水が入っている充実感にやられている気がするのだが、逆さにしたとき、そのスノードームの中身がオイルで、ゆっくりゆっくり白い雪が降り始めると、そわそわするほど胸が高鳴る。自分の中にもオイルがじっくりと流れ込んで雪が降ってくるような、不思議な時間の密度がふと感じられ、そんな風に思うほど気持ちにゆとりがないときであっても、ともかくは、暖かく幸せな感じがして美しい玩具だ。木枯らしが吹く寒い日、コートとマフラーと手袋の重装備で、そのなかで今年一番ぐっとくるスノードームを探し歩くのは楽しい。
ノスタルジックな土産物の代表だと言えるスノードームは、フランスで生まれ、ヨーロッパで広まり、アジアで大量生産されて…というようなよくある生産の歴史を持った品物だが、そのおかげで今でも世界中の土産物屋に売られている。わたしが旅行した先でも、雪の降らないカンボジアでは像やアンコールワットにキラキラした粉が降るスノードームや、トルコでは踊るスーフィーのモチーフのスノードームもあった(残念ながら回転はせず)。インターネットでも、ひとたび「スノードーム」と好きな国名を入れて画像検索を始めれば、めくるめくような世界中のコレクターたちご自慢のドームに誘惑され、うっかり一日を潰されてしまうのでご用心(ちなみに今年のシャネルの化粧品ノベルティもスノードームだそう。こちらも画像検索で出てきますが、白と黒でなかなか素敵!)。
スノードームという呼称のほかに、スノーグローブ(snow globe)とも呼ばれるそうで、こちらの呼び方もいいなと思う。スノードームはまさしく、いつか人間が死んで地球という日常を離れるときに、ほっと思い出すある地球上での一日がそのまま球形のガラスの中に閉じ込められているようだ。大切なものをみんな失くさないように閉じ込めて、蓋をするように地上へ雪を降らせ、液で密封して、自分自身はそれをそっと手にとって懐かしんでいるような。わたしの持っているお気に入りのドームに、最近購入したものだが、東京タワーのスノードームがある。東京スカイツリーに世代交代したあとの東京タワーのオレンジ色は、なんとなく優しく穏やかで、そんな東京タワーとその下の街をめちゃくちゃ大雑把に再現したジオラマに雪が降る。それはあたかも自分の過ぎ去った時間に降る雪のようで、適当さが味のあるジオラマのなかに、ふと、かつての自分自身や、いまはもう失った大切な人が、幸せそうに歩いているのを見つけられる気がする。
スノードームの鑑賞方法としてわたしが是が非でも推したいのは、思いっきりガラス球に顔を近づけて見ることだ。片目をほとんどくっつけて見てもいい。そうするとモチーフの鹿や人形が大きな物言いたげな登場人物となって、ジオラマのなかに行けるだろう。その向こうに、歪んだ世界を万華鏡のように見るのも楽しい。ひそかに欲しいと思っているのは、動物園のスノードームで、どこかにないだろうか。着色のやや適当な、小さな動物が檻のなかにそれぞれいて、虎やインド象やオットセイの上に、ゆっくりと大晦日のような雪が降り積もるスノードームを探している。
旅の思い出はもちろん、こんな時代なので、幸せだった冬の記憶をそっと心のなかに生み出すために、これからきっとスノードームが見直されると思う。わたしはまだ挑戦したことはないが、スノードームを手作りするというツワモノも世の中にはいるようなので、スノードームで愛の告白をするのもいいと思う。遠いところへ行ってしまった人へ、あなたの部屋から見える故郷の街に降る雪をジオラマで再現して、赤いリボンをかけて送れば、きっと燕のように、春には戻ってくるだろう!