「商品」の作り方
俳句にとって「商品」とはどういうカタチをとるのだろうか。
いちおう句集には、定価というものがついていて、買おうと思えば買うことができるようになっている。
買うことができるので、買う。
近年購入した句集をちょっと紹介すると、彌榮浩樹『鶏』、小久保佳世子『アングル』、御中虫『おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪うぜ』。
読みたかったから手に入れたのである。
まずは、インターネットで作品のレビューを知り、その後に、やはりインターネットを通じて取り寄せた。
流通しているので「商品」ということになるのだろうが、いちがいにそうも言い切れない面もある。
「徳用明太子」のような「おとりよせ」と同じ流通のルートではあるが、句集と「徳用明太子」とは一線を画す。
徳用明太子は、なんといっても「消費」できるのである。消費したくて買うのである。
いうまでもないが書物は「消費」できないわけではない。小説を購入する場合、その目的は、その本の情報を楽しみたいのである。書籍とは不思議なもので、読むというよりは本棚に並べておいて鑑賞したい、あるいは来訪者に見栄をはったり威嚇をしたいという目的から購入する場合もあるようだが、それはそれで、書かれている情報ではなく、情報の「気配」を消費しているといえるだろう。情報を楽しむために澁澤龍彦を集めたり、威嚇のために埴谷雄高を並べたりと、書架はストックヤードであると同時に、消費活動の掲示スペースなのである。
で、句集なのだが、情報を楽しんで消費するという姿勢で読むことはなかなかできない。それは、私が俳句作品を書いたりするから、である。村上春樹を読み終わって、さて、自分はどうやって自分の小説を書こうか、などとは思わない。句集とは、基本的に同業者が読むモノなのであろう。同業者は、楽しみこそすれ、そこで終わらない。なんらかを取り込むなり、排除するなり、要は、自分の仕事の肥やしにしようとする。確定申告に計上するとして、経費にするか自家消費にするか、といった違い、である(句集購入費を経費計上したことなどは無いけれど)。
また、書架において見栄をはったり威嚇をしたりしようとしても、これは肝心の来訪者にそれなりの受信準備が無ければ意味をなさない。そして、日常の来訪者というものは、句集の書名や作者に対しての予備知識など持っていないのが普通なのである。「句集ばっかりですね」などとマニアぶりに驚いてくれるのが関の山である。けだし、この手の消費も発生しにくい。
なにも、句集というものが商品としての弾力性を持ち得ないとか、流通が閉鎖的だ、などとあげつらうつもりでは無い。
俳句はそうした読者=作者という図式を下敷きにしてきたマーケットを形成して久しく、むしろ、こちらが主流。
句集は、販売目的よりも、作品集として他の作者たちのもとへ届ける献呈の目的で製作され、ということは、ビジネスの主戦場は、句集の流通ではなく、句集の製作をめぐる業務となる。ということで、句集を出したいという人に「いやいや、あなたの作品は出版するに値しませんよ」などという出版社は存在しがたいわけであり、句集とは、「商品」というよりは、商業活動の結果生み出されるモノという側面が強くなりがちなのである。少数の作家の作品を大衆が享受するというのでなく、作家たちの相互交流の規模そのものがマーケットサイズ、ということになるとすれば、ここにはプロの作家を育てる動機は存在せず、むしろ「あなたにも出版は夢ではありませんよ」という敷居の低さをイメージとして維持する必要が生まれようというものである。繰り返すが、それが悪いわけではない。ただ、忘れてはならないのは、そうした環境では批評は副次的な位置に後退し、つまり作品そのものよりも句集を出す熱意のようなものが評価の対象になる傾向を否めないということだろうか。
さて、作者に対しても読者に対しても「敷居の低さ」を強調しなければならないのがマーケット環境維持のためのコードであるとするならば、総合誌とは、批評活動の場であることよりも、むしろ「俳句とは何だろうか」「俳句を書く行為とは何だろうか」ということに関して仮の解答を提案しつつ、つまりそれは、個としての営みに覚醒しないように配慮する場、といえなくもないのである。
整理したい。
疑問がある。
こうしたメディアとマーケットからの評価をもって「俳壇からの評価」ととらえることがあるとしたら、それはかなりサムい考えということになるのではないだろうか。作品への評価と、メディアでの重用、そのことが相関しているのだろうか。「俳壇から認められる」とはどういうことを言うのだろうか。「俳壇」とは何か。
ひょっとして、ビジネスがビジネスであると気がつかずに、創作と批評のガイドラインを示す行為であると認識しているのか。
あえて重ねて言うが、ビジネスが悪いわけではない。不純といういう指摘があったらそれも不適切。
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いやはや、それにしても、詩も短歌も川柳も、商品って作れるのだろうか。
一般読者へ流通するモノを作ることはできるのか。
わからない。
句集においては、やはり難しいんだろうなあ。
評論集、さらに難しそう。
とはいえ、そのジャンルにおける新しいビジネスモデルを模索するチャレンジが、そのジャンルの既存のビジネスモデルを相対化し客観化することにつながり、逆説的ながら、その結果、ビジネスを背景にする「評価」というものから比較的軽くなれるのではないか、と想像してみるのである。
そういう視点から考えるに、この本、この試みは、もっと高く評価されてもよいのではないかと思えるがいかがだろうか。
『虚子に学ぶ俳句365日』 週刊俳句編 2011年6月6日刊行
解説執筆は、相子智恵、生駒大祐、上田信治、神野紗希、関悦史、高柳克弘の各氏。見るに、解説を「編集部」が行っていること少なからず。したがって上記の執筆者に加えてどなたかが名を伏せて書いているようである。日めくりカレンダーのように、一日につき一句、それをひとりの書き手が鑑賞。
文章はいたって平明、シンプル。
はたして虚子の魅力をすべて語ることができているのかと言えば、まあ、そんなことはどうやってもかなり厳しいわけで、つまりそこらへんを踏まえた上で、あたらしい読者へ向けて文章を書き下ろしている。
たとえば、9月29日はこんなかんじ。
割合に小さき擂粉木胡麻をすり
つまらないことを、面白くなさそうに書いているのに、なんだか笑えてしまうのが、俳句のユーモアというものです。落語家やコメディアンにも、そんな人がいますね。この句、擂粉木が小さいと言っているだけなのですが、「割合に」と、自分の感じ方に念を押し、擂粉木の説明が終わったあとで、あらためて「胡麻をすり」と付け加えるあたりに、「つまらないことの面白さ」がじんわりと発生しています。(上田)
赤瀬川原平の美術解説を思い出したりもして、なるほど、これなら流通させられる。
こうして365日分が並んでいる。
この書籍、私にとっては、「虚子に学ぶ」というよりは、俳句における「商品の作り方」として有意義であった次第。