俳句時評 第28回 湊圭史

自由律はドラマだ

先月出たばかりの粟田靖編『碧梧桐俳句集』(岩波文庫)を読んでいます。面白いです。子規の影響下にある初期作品も悪くないですが、やっぱり、はっちゃけて自由律になってからが無類に楽しい。

蟻地獄に遠しつぶらなる蟻   河東碧梧桐
鴨むしる肌あらはるゝ
馬の艶々しさが枯芝に丸出しになつてゐる

この辺りはとりあえず、まっとうでステキなスケッチ?ですけども、

ことしの菊の玉砕の部屋中
中腰で目刺を炙って戦はんとす

何でしょう、この気合いは(笑)。省略が妙な感じで働いて、読んでしばらくするとムラムラと効いてくる、以下のような作品がオススメです。

菊がだるいと言つた堪へられないと言つた
林檎をつまみ云ひ尽してもくりかへさねばならぬ
梨売が卒倒したのを知るに間があつた
出しなに氷柱うちはらつて往つた若者
ポケットからキヤラメルと木の葉を出した

いったい何があったのやら。逆に言い過ぎの句。これも脳みそのどこかにヘンに効いてくる感じ。

刈り遅れた麦で皆んながそれ“/\に不満なのだ
広場に枯れて立つポプラの下をもう三度通る
こがりついた塩から鮎を離すのであつた
正月の日記どうしても五行で足るのであつて

一句読むごとに「そんなことを言われましても、先生(笑)」と、いちいちツッコみを入れながら読むと楽しい。また、別の意味で気になってタマラんのが、家族ネタの句。

下女より妻を叱る瓜がころがり
弟を裏切る兄それが私である師走
  M子病む
髪が臭ふそれだけを云つて蠅打つてやる
隣りの梅を見下ろして妻の云ふこと

奥さん、何を言ったんでしょう、いやあ、気になり過ぎる・・・。と、読んでみて、自由律にあって、575定型にかけているものはドラマではないかと思いました。もっと抽象的に言えば、時間性。というと、あの「時間性の抹殺」(山本健吉)のテーゼの単なる裏返しみたいになってしまいますが。

木の間の水春日さすまゝのゆらぎ
蜜柑すず熟りの老木の十年
坑夫の妻子を作る山吹がさく
鳥居によりたかつてゐた夕暮れの子供もゐない
家が建つた農園のコスモスはもう見えない

上の碧梧桐の句に書かれたようなドラマ性、時間性を俳句が積極的に開拓しなかったのは、良かったのか、悪かったのか? 個人的には今からでも試してもいい、面白い領域だと思います。

いや、自由律俳句の分野では十分に開拓されているのか? どうも、私が読んだ範囲では、自由律俳句は自己述懐の狭い領域に向かったように思えるのですが、碧梧桐の句に感じるような広がりのある句もどこかにあるのかも。どなたか、ご教示いただけると幸いです。

領域の開拓といえば、先日、この詩客の11月4日号に掲載された外山一機さんの「僕はここにいる」にはのけ反りました。

外山一機「僕はここにいる」

タイトルだけだと山崎まさよしみたいですが、「今あなたのいる場所を教えてください」とメールを送り、名前と返信時刻を前書、住所を句として並べただけもので、じつにカゲキです。第一句だけ引用すると、

  外山一機(14時46分)
多摩市永山1丁目3‐2

この住所に何か送ると外山さんに届いちゃうんじゃないのか、とか気になりますけど(笑)、そうではなくて、俳句が短めの一行(+前書)で成り立つとして、どこまでが可能な領域なのかという問いかけ、さらに言えば、表現一般への問いも含んでいます。これが、文芸表現である(あるいは、ない)として、それは何故か?

外山さんによるもうひとつの実験的試みが、こちら。

外山一機「僕らの俳句」

京都の詩人2人と私が運営している「言語実験工房」のウェブサイトに掲載させていただいたものですが、近現代の名句を「音訳」しています。

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