『俳コレ』と『六十億本の回転する曲がつた棒』と
さらにアリスとしては、そのうさぎが「どうしよう! どうしよう! ちこくしちゃうぞ!」とつぶやくのを聞いたときも、それがそんなにへんてこだとは思いませんでした(あとから考えてみたら、これも不思議に思うべきだったのですけれど、でもこのときには、それがごく自然なことに思えたのです)。
山形浩生翻訳 『不思議の国のアリス』より
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2011年を回顧しようと思っていた矢先に、金正日氏急逝のニュース。
今年はあと1週間しかないが(この記事が公開されるのは2011年12月23日の予定)、「まだ」1週間も残っているとも考えられるのであって、気が抜けない。
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そういえば、本日(しつこいようだが、この記事が公開される2011年12月23日)、私学会館アルカディアに於いて、『俳コレ』刊行記念シンポジウム&パーティ&二次会、「俳コレ竟宴 俳句を枕に」が開催される。年末に来て、たいへんな騒ぎである。気が抜けない。
http://www.haikore.jp /俳コレ竟宴とは/
ウェブマガジン「週刊俳句」が入集作家を選定、各作家自撰による200句から700句をもとに、編集部が依頼した「選者」が選出した100句が並んでいるのが『俳コレ』。入集作家は22名。
野口る理 (関 悦史)……眠くなる/かたちと眠けのあかるみ
福田若之 (佐藤文香)……302号室/西日の部屋
小野あらた(山口優夢)……隙間/誠実さと情熱
松本てふこ(筑紫磐井)……不健全図書〈完全版〉/AKBてふこ
矢口 晃 (相子智恵)……白壁に蛾が当然のやうにゐる/境界の詩情
南 十二国 (神野紗希)…… 星は渦巻/循環する心
林 雅樹 (榮 猿丸撰 小論・上田信治)……大人は判つてくれない/顰蹙に義あるとせば
太田うさぎ(菊田一平)……蓬莱一丁目/おおらかなおおどかな
山田露結 (山田耕司)……夢助/ほろ酔いブルース
雪我狂流 (鴇田智哉)……良夜/不思議な普通
齋藤朝比古(小野裕三)……こんなに汗が/ユートピアの骨法
岡野泰輔 (鳥居真里子)……ここにコップがあると思え/都会色のカタルシス
山下つばさ(島田牙城)……森を飲む/騙し繪としての俳句
岡村知昭 (柿本多映撰 小論・湊 圭史)……精舎/溺れる者は俳句をつかむ
小林千史 (山西雅子)……エチュード/私から見た千史さん
渋川京子 (大木あまり撰 小論・小川楓子)……夢の続き/朱欒の夜、葉桜の昼
阪西敦子 (村上鞆彦)……息吐く/爽快な型破り
津久井健之(櫂 未知子)……ぽけつと/さり気なさという着地点
望月 周 (対馬康子)……雨のあと/真の場所
谷口智行 (高山れおな)……紀のわたつみのやまつみの/ドクトル谷口の熊野ラプソディがずっと前から好きだった。
津川絵理子(片山由美子)……初心の香/しなやかに生きる
依光陽子 (高柳克弘)……飄然/受肉された時間
( )内は選者/小論執筆者
合評座談会=池田澄子・岸本尚毅・関悦史・高柳克弘・上田信治
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他者が撰をする。「週刊俳句」編集部 上田信治氏は巻頭で、その理由を述べている。
作品を他撰とした理由は「その方が面白くなりそうだったから」ということに尽きます。信頼できる作家による他撰によって、最も作品本位・読者本位の価値基準による選考が実現されることを、編集部は企図しました。
作家が作家であるところは「個人という意志の表出」にある、などと考える人がいて、そういう人は、他者が撰をした句をもって「自作を世に問う」なんてのは嫌うんだろうなぁ。そういう考え方の傾向は、とりもなおさずアートや文学の世界では「近代」と位置付けられることになっているようで、そういう視点からすれば、『俳コレ』は、「脱・近代」という試みであるともいえるのであろうか。
まあ、いちいち「近代」と相対化する必要も無いのではあろうけれど、このところにこそ、『俳コレ』の「現代性」というものがあるのかもしれず、ついつい言っておきたくなるのである。
上田氏は続ける。
「週刊俳句」は、2007年創刊のウェブマガジンです。(中略)私たちに存在理由があるとすれば、それは他のすべてのメディアと同じように、人々の欲求を代行する代理人であることに求められるでしょう。
「週刊俳句」の場合、その欲求は、同時代の俳句に対する欲求です。俳句はどこまでも多面的であっていいし、もっと紹介されていい作家や、もっとふさわしい価値基準があるはずだ。それは、私たちが俳壇ヒエラルキーを離れ、読む側の立場から活動するうちに発見した欲求です。
「俳壇ヒエラルキー」といわれて、ああ、あれね、と思い当たるモノがないわけではない。歩く「俳壇ヒエラルキー」的な人の顔も思い浮かばないでも無い。
俳壇ヒエラルキーとは、江戸時代の宗匠制度とはことなる。どちらかといえば、定型という「だれのものでもない」ものと、「私のもの」であるとされる「個」のありようとのズレやら不適合やらを前に、「これでいいのだ」と方針を指さすところに発生する権力のようなものが、「俳壇ヒエラルキー」の根にあるのではないだろうか。個であろうとしつづけることの不安によって、むしろ、類型的で「だれかのような」スタイルに倒れ込んでゆくことになる、それを「近代が生み出した矛盾」と捉えるならば、俳壇というのは、そうした「だれかのような」ところで安らぎを得る矛盾ゾーンとしてイメージされることになるのだろう。
矛盾を声高に指摘した者、すくなからず。ただ、それを乗りこえるとなると、かけ声ではなく、具体的なアクションが必要になろうというものだ。
「これでいいのだ」と指さして安らぎの地へと導いてくれる人に身を委ねるのではない。むしろ、作品に対して一貫した思いをもつのが作者であるとして、そんな思いを汲み取ることよりも「作品」の面白さ(それは選者が読者として感じている面白さ)において句を選ぶという、作者が不安を感じずにはいられないような行為を、作者/選者(小論文担当者)の大所帯で、しかもばらばらな個々の状況をばらばらなままに、実現してしまったのが『俳コレ』。ウェブマガジン「週刊俳句」が志向するところが、物体としての本になってこの世に出る、これは面白い。面白いアクション。
長いロープで大人数がいっぺんに飛ぶ縄跳びのようなものである。ちなみに、なんどもロープがまわり、なんども同じメンバーで跳んでいると、運動に均一性のようなものが生まれてしまう。それでは、本書が醸し出す「多面性」のばらばらっぷりが薄れようというものだ。ここから先は、さらに多様な「読者」たちの手に委ねられて、多様な評価が交錯する状況が期待されるところ。
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気が抜けない。
年末に来て、ボッシュの画を背負い安井浩司の帯をまとう句集が出版された。
関悦史『六十億本の回転する曲がつた棒』。
黒田杏子による15句撰が帯に掲載されているので、そのまま記す。
金網に傘刺さりけり秋の暮
逢ひたき人以外とは遇ふ祭かな
椿剪ル未ダ死ナヌ者數ヘツツ
入歯ビニールに包まれ俺の鞄の中
年暮れてわが子のごとく祖母逝かしむ
祖母口を軽くひらきて木箱の中
鏡には映り阿部完市話す
人類に空爆のある雑煮かな
網にかかる蛸とゴルディアスの結び目と
胡桃のなか学僧棲みてともに割らる
年越しそばふとコロッケも乗りたがる
屋根屋根が土が痛がる春の月
崩るる国の砕けし町の桜かな
足尾・水俣・福島に水滴れる
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信じるなら、己が日常から信ぜよ、否むなら、己が日常から否め
まさに今日の此処から関悦史の、21世紀の豪快なドラマが開始された。そこでは現代という大観念へ激しく銃を撃ち込み、何が倒れ、何が血みどろになっているのか、それを見届けるのが作者の念願でもあろう。まさに現代の叙事詩を収めるに相応しい巨大な臓腑を、現代俳句に持ち込んだ第一句集と言える。新しい詩を成すことが真の意味で前衛であるなら、躊躇なくそれを冠したいのだ。
安井浩司の帯文である。
信じるなら、己が日常から信ぜよ、否むなら、己が日常から否め
うまいなあ。このキャッチ。
近代における個とは、個でありながら、理想とすべき観念をそれぞれが分業するかのように見とどけ共有する傾向にあると仮定してみると(また、近代かよ…)
関悦史は、誰かと理想を共有したりはしていない。たしかに〈ウルトラセブンの闇の高島平かな〉などに見られる「記憶の共有」などは指摘できよう。しかし、それとて、己が日常を描くなかでの一貫でしかない。そして、日常とは、関悦史にとっては、「だれかのような」時間において得る安らぎのことではなく、「だれでもない私」が感応する世界のことなのだろう。
現代における俳句の叙事詩は、事柄の説明ではなく事柄への感応としてあらわれてくるとして、世界における条理が断片化し情報が複層化するのに対応するように、感応も痙攣しながら体系的な姿を喪ってしまうであろうことが予想される。関悦史の句集は、その感応の採集箱のようでもある。
採集箱という感想を抱くのは、その句の多さから来るところでもある。あとがきで関が報告する数をそのままに引用すれば、本書に収録されているのは796句。
個人の句集としては、かなり多い。
ここで提案なのだが、『俳コレ』において選者が己が価値観によって作品を選び出したように、『六十億本の回転する曲がつた棒』から100句を選ぶ遊びをするのはいかがであろうか。関悦史の個人的な感応のコレクションをみずからの価値観で選句し編集することで、撰をほどこした者の「日常観」が浮かび上がってくるのではないだろうか。それはそのまま「現代俳句」というものの手触りのひとつを体験することにつながるはずである。
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『俳コレ』と『六十億本の回転する曲がつた棒』。
ならべてみれば、おもしろい風景。
ウサギのあとについていくと不思議な世界がある、とか。
ウサギの年も、あとわずか。わずかとはいえ、この風景。
気が抜けない。