俳句時評 第46回 外山一機

黛まどかの来し方

黛まどかが第七句集『てつぺんの星』(本阿弥書店、二〇一二)を上梓した。黛まどかといえば、一九九四年に「B面の夏」で角川俳句賞奨励賞を受賞し、九六年には女性限定の俳句雑誌『月刊ヘップバーン』を創刊・主宰した「女性俳人」である。黛にはその俳壇デビュー当時からさまざまな評判があったが、「B面の夏」から『月刊ヘップバーン』にいたる彼女の道程に対する一応の評価は、たとえば「若い女性たちの日常の感覚を俳句に開放する可能性を開いた」(『現代俳句大辞典』三省堂、二〇〇五)とするものがおよそ一般的であろうか。

旅終へてよりB面の夏休
飛ぶ夢を見たくて夜の金魚たち
交換日記少し余して卒業す
写真奪つて緑陰に走り込む
夕立をかはす男のシヤツの中
兄以上恋人未満掻氷
夕焼の中に脱ぐもの透きとほる
恋冷ますため冬のブランコ漕いでをり

第一句集『B面の夏』(角川書店、一九九四)に記されたこれらの句は、「許されない恋に落ち、いちばん言いたいことが言えないもどかしさ、いちばん聞きたいことが聞けない惨めさ、いちばん会いたい時に会えないせつなさを、涙を落とす代わりに、十七文字というひと雫に結ぶことにしたのです」という「あとがき」と併記されることによって、あたかも黛まどかという若い女性の内面や身体を覗き見ているかのような体験を読者にもたらしたのであった。もちろんこれらの句に対しては表現としての水準の低さを指摘する声もあったが、同句集の反響の大きさを鑑みるならば、ステレオタイプともいえるフレーズで構成されたこれらの句を、むしろ彼女の身の丈に合った表現として好意的にとらえる者が少なからず存在したとみるべきであろう。先の「若い女性たちの日常の感覚を俳句に開放する可能性を開いた」という評価は、黛の身体と彼女の俳句表現とのこうした絶妙なバランスのうえに成立するものであったのだ。

一方で黛の登場を俳壇の側から眺めるならば、また違った見え方もするのである。すなわち黛まどかの方法論やふるまいは、女性俳人のそれとしては驚くほど典型的なものであった。安住敦の『春燈』で活躍し『春野』を創刊・主宰した黛執を父にもつ彼女が俳句を本格的に始めたのは、自らも述べるように杉田久女に興味を持ったことがきっかけだったという。たとえば久女や竹下しづの女、あるいは橋本多佳子、鈴木真砂女、鈴木しづ子などの俳句表現への評価は、それが彼女たちの俳句表現から彼女たちの生身の身体や内面をあぶりだそうとする営為と表裏一体のものであり、そして彼女たちはこの「まなざす/まなざされる」という抜き差しならないゲームに多少なりとも自覚的にふるまいつつオリジナリティを発揮してきたのであった。そしてこれは黛自身にもあてはまる。実際、黛ほど多くの視線を浴び続けてきた女性俳人はそうはあるまい。そして黛はその華々しい俳壇デビュー以降、各メディアの要請に応え続け、そのなかで自らの俳人としてのありかたを模索してきたのであった。

黛のこうした活動について、宇多喜代子は次のように述べている。

タレント活動をする若い女性と俳句。一般の目にはこの取合せが興味深く見えたようで、次々と新聞社や雑誌社の若い女性記者が取材に訪れるようになりました。俳句に興味を持ったその女性記者たちと句会をやってみる。これがこの月刊誌(月刊ヘップバーン…外山注)の出発でした。当初から、一般に考えられているような、たとえば「一句十年」という類の修行のために粒粒辛苦を重ねるという俳句結社ではなかったのです。(宇多喜代子『女性俳句の光と影』NHK出版、二〇〇八)

二〇〇六年に第一〇〇号をもって終刊した『月刊ヘップバーン』については、たとえば桂信子が「黛まどかさんの俳句、『月刊ヘップバーン』とか、それもよろしいですよ。ストレスの解消になっていいと思いますけれど、そういうのとこっちの俳句と一緒にされると困る。いちおう私たちは本当の俳句を守っていかねばいけない」(『証言・昭和の俳句』上巻、角川書店、二〇〇二)と述べているが、思うに「それもよろしい」という評価は双方納得の言ではなかろうか。「黛まどか」は「桂信子」ではありえないし、「桂信子」もまた「黛まどか」にはなれないのである。

さて、今年三月に黛が上梓した『てつぺんの星』であるが、約五年ぶりの句集となる。四十代になり、第一句集『B面の夏』からは一七年近い歳月が流れていることになる。

わらんべも仏も濡れて花まつり
じやんけんのあひこが続き山笑ふ
ずぶ濡れに男が帰る祭かな
くれなゐを支へ切れずに薔薇崩る
縄跳びの大波小波夕化粧
遙かより来て遙かへと秋日傘
待春の奈落に溜まる紙吹雪
てつぺんの星が傾げる聖樹かな

有季定型・旧仮名遣いやあたたかなユーモアは相変わらずだが、恋愛句は少なくなっている。一方で句集全体から通底音のように響いてくるのは「くれなゐを」「縄跳びの」の句に見られるような止みがたい感傷である。しかしながら、モチーフこそ違え、むしろ『B面の夏』から『てつぺんの星』までの黛の俳句観には大きな変化はなかったというのが本当のところではなかろうか。黛自身、本句集のあとがきで次のように述べているのである。

この五年間、主宰誌の終刊をはじめ、「日本再発見塾」の発足、文化交流使としての渡仏など、様々なことがあった。病も得た。(略)
いずれの活動もどこかで俳句につながり、私の人生を豊かにしてくれている。病でさえも、やがては俳句に帰結し、昇華する。実にありがたい表現形式であり、これこそが俳句の底力だと思う。

黛まどかを「黛まどか」たらしめているものがあるとすれば、それは有季定型・旧仮名遣いを前提とした俳句形式へのこのような手放しの信頼であるだろう。

これを『B面の夏』に先んじて『檸檬の街で』(牧羊社、一九八七)を上梓した松本恭子の営為と比較するとき、黛の俳人としてのありかたがよりくっきりと見えてくるようだ。松本恭子が『青玄』の文体と出会うことで「恋ふたつ レモンはうまく切れません」をはじめとする口語的な文体の句を発表し、俳壇におけるライトヴァースの旗手と目されたのは一九八七年のことであった。ところがその約一三年後の第二句集『夜の鹿』(青幻社、二〇〇〇)においては文語的表現が主体となり旧仮名遣いも採用されている。ここに一二年間の年月における俳句形式との葛藤の跡を見ることも出来よう。そして『檸檬の街で』に遅れること七年後に登場した黛まどかが俳壇内外において華々しく活躍し続ける一方で、松本が『檸檬の街で』から『夜の鹿』へと模索しつつ俳句ブームの中心から遠く離れていったことはいうまでもないのである。

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