俳句時評 第63回 湊圭史

新書で俳句を

残暑です。暑い、暑いといいながら、エアコンをつけるのを我慢してこれを書いています。暑い、暑い。

ちょっと字を変えて、熱いといえば、今週の「週刊俳句」に載った島田牙城氏の「『俳句』2012年8月号『緊急座談会』読後緊急報告『輸入品の二十四節気とはずれがある』は間違ひだ!」(タイトル長!)は熱のこもった論陣をはっていて、とても勉強になります。

もうお判りだらうが、夏は暑い、冬は寒い、といふのは勘違ひである。冬至、春分、夏至、秋分を季節の中央に置くとはどういふ事だつたのか。日の一番長い三ヶ月が夏、日の一番短い三ヶ月が冬なのである。中国、そしてそれを輸入した日本の春夏秋冬とは、先づ第一に日の長さで決まつてきたのであつて、気温で決めた物ではない。だから当然、日本と中国になんらの「ずれ」も存在しないし、それを気温で語るとすると、兆から闌までとなる。これを、ごく自然に、農耕民族たる中国の人々が生み、日本の人々が受け入れた。

そりゃあ、暑いの寒いのとティファールの湯沸かし器みたいな感覚で、暦なんかができてるわけないよな、と大きくうなずく。

で、ここから本題。俳句に関する新書のブーム、というか、新書のブームの一環として、俳句がテーマのも出てるってことなんでしょうが……。

千野帽子『俳句いきなり入門』(NHK出版新書)
倉阪鬼一郎『怖い俳句』(幻冬社新書)
正津勉『忘れられた俳人 河東碧梧桐』 (平凡社新書)
今井聖『部活で俳句』(岩波ジュニア新書)

先月(7月)から私の目に入ったのは、以上の四冊。他にもあるかもしれませんが、俳句関連の新書を本屋に行くたびに目にするのは初めてなんで、へえと思いました(別に深い感想はなくてすみません)。

後の二冊は読んでないのですが、千野さんと倉阪さんの本はそれぞれ面白かった。

千野帽子『俳句いきなり入門』は「俳句は一発芸」なるコピーが帯に踊っていて、内容的にもちょっと挑発的に響くところを狙っているフシがありますが、全体としては手とり足とりの丁寧な入門書(まことに現実的に、切れ字の使い方とか、文語のほうが俳句を作るのはラクだとか)として、ふつうに読めます。句会ベースの俳句の楽しみ方の入門として。フシブシで、「俺たちセンスがいいんだぜ、お前らイタイやつらとは違うぜ」という気どりと、「啓蒙家じゃないよ」と言いながらの啓蒙家ぶりが鼻につくといえば鼻につきますが、作者の人生の添えものとか、漠然とした近代道徳の要約とかとして俳句を読む傾向をうまく茶化しているところ、結構楽しめました。新しいことが書かれているかというとそうでもなくて、坪内ネンテン先生の思想と、小林恭二『俳句という遊び』以来の小規模互選句会の広まりに乗っかった内容ではありますね。

ちょいと真面目になって疑問を言えば、「俳句は一発芸」というところですかね。分かりやすい惹句として選んでいるところはあるんでしょうが、この本に書かれているところでは、まともに「芸」と呼べる「一発芸」はムリなんじゃないかってことで。お笑いのピース又吉氏の名前が出てくるように、お笑いブームに引っかけてということなんだろうけれど、お笑い芸人の「一発芸」が思いつきのセンスだけで出来ているとは思えない。あんまり突っ込むと笑えなくなるところ申し訳ないが、いかに表面的でないキャラクターを用意するかをクリアしたうえで、「ワイルドだろお?」はウケてると思うのですね。

「まとも」な言語センスがあってふつうに生きてる、詩歌に興味のない一般人のあなた、あなたが本気出したら、何十万人いるかも知れないポエマーが一生かかっても書けないモテ俳句を書くことなんか、ちょい堅い蛇口ひねるより簡単のことなのさ。(「あとがき」より)

ということですが、「センス」を見せてうれしい、っていう程度だと、どうせ俳句もすぐに止めると思うんですが。まあ、「ポエマー」たちを擁護する気は、私にも毛頭ないですが。

倉阪鬼一郎『怖い俳句』(幻冬社新書)はちょっと驚きの内容でした。エロ川柳といったくくりのアンソロジーはたくさんありますけれど、「怖さ」といった切り口でこれだけ広汎な句(決して高名とは言えない俳人の句も多数!)をそろえた本は新書以外にもないのじゃないか。千野さんの本のように、俳句に興味のない人間に、といったおおっぴらな狙いがないだけ、俳句に無関心だった人間にもびしっとくるところがありそうな。論評も、「怖さ」という焦点を手放さないながら、一句一句細をうがった細をうがちつつ、近世から現代までの俳句史も押さえた読みを披露してくれていて楽しい。実際、掲載句が怖いかどうか(「崖氷柱刀林地獄逆しまに 松本たかし」なんかはアングラ映画の場面みたいで逆に笑えてしまいますが)には関係なく、一冊を通して、読み手の姿勢がすっきりと見えている好著だと思います。

ひと言でいえば、その姿勢は「深読み」(下に書くように悪口ではないですよ)ではないか。

囀りやピアノの上の薄埃   島村元

を読んで、怖いという読者はまずいないと思いますが、倉阪さんは各語のもつ(あるいは、もつと想像することが可能な)背景をぐいぐい引き出して、この句が「怖い」ことのひとつの説得力のある読みを披露してくれています。いっしょに読んでゆくと、そんな可能性もこの句にはあるのだと納得できます。

掲出句で私がいちばん怖いと思う句は、

獣屍の蛆如何に如何にと口を挙ぐ   中村草田男

草田男さんはどうも、よく分からんとこがある人ですね。

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