自由詩時評 第21回 野村喜和夫

 今回はふたつの大冊について語れば、それで十分だ、いや十分すぎる。

 まず、鈴村和成訳『ランボー全集』(みすず書房)、587ページ。名だたるランボー研究家にしてみずから詩人でもあるという理想的な訳者を得て、21世紀のいまにランボーがいきいきと甦ったという印象だ。たとえば、ランボーが書いた韻文詩としては「母音」とともに最も名高いLeBateau ivreは、従来「酔いどれ船」「酩酊船」などと訳されていたが、鈴村氏は思いきって「酔いどれボート」と軽めに訳し、本文も子供の口調を入れたポップな感じに仕上げている。

 しかしそのことをおいても、本書には画期的な意義がある。ひとつには、個人訳全集であること。アカデミズムの総力を結集した従来の全集版の、なんといっても最大の瑕瑾は、訳がばらばらだということだ。一人の詩人が書いたものが、複数の訳者によって文体的統一も何もないずたずたの状態にされてしまう。研究の成果や注解の精確さが優先されて、翻訳という最重要ミッションが犠牲にされてしまう。もちろん、これまでにも個人全訳として、粟津則雄訳『ランボー全詩』(思潮社)をはじめ、宇佐美斉訳『ランボー全詩集』(ちくま文庫)や鈴木創士訳『ランボー全詩集』(河出文庫)があるが、それらはいずれも作品にとどまっていた。これに書簡を加えて、ランボーが書いたもののすべてをひとりで訳したのがこのたびの『全集』なのだ。

 もうひとつは、その書簡の扱い方である。もともと詩と手紙というのは極限においてそのあり方が似ており、よく知られているように、パウル・ツェランは詩を書く行為を投壜通信にたとえたほどだが、ランボーの場合はそれがとくにきわだっている。というのも、ランボーは、しばしば手紙に詩を同封した(いわば手紙が詩の発表場所だった)のみならず、手紙の文面と区別がつかない場合もあり、さらに『イリュミナシオン』にいたっては、まるで誤配につぐ誤配のように、その原稿が人から人へと渡っていったという経緯がある。本書は、そういうランボーの特異性そのままに、詩から書簡(とりわけアフリカで書かれた書簡)へと、これまでにない連続性をもって読むことができるように編集されている。そうしてそこから、詩をも手紙をもつらぬく、質でもなく量でもない、まさしく強度としてのエクリチュールというものが浮かび上がってくるのである。訳者自身の言葉を引くなら、「詩、散文、書簡を通して読むことで、今まで信じられてきたランボーの〈沈黙〉という──多分にロマン主義的な──神話から解放された、詩人のうちに〈書くこと〉が持続する、驚くべき新しい光景が発見されます。」

 つぎに、福間健二『青い家』(思潮社)、495ページ。単行本詩集というよりは全詩集のボリュームだが、すこしも圧迫感は感じさせず、むしろ翼を得てどこかに飛び去っていきそうな軽やかさがある。じっさい、個々の詩もひとつのテーマやイメージにこだわらない詩人の発話の自在さと感性のフットワークが際立っている。現代英米詩の影響であろう。そうして、現実との生き生きとした接点が接点のままに語られ、生が生のままにうたわれるのである。

 思えば、日本近現代詩の流れは、生をなにかしらの別次元へと超越させる象徴主義的な詩観を基調としてきた。エリオットなどに学んだ戦後の「荒地」の詩人たちの場合でも、そうした詩のありかたは根本的には変わらなかったようだ。ところが、私たちはこの『青い家』に至って、ようやく、なにかべつの詩の空間が達成されたことを感じる。主体には中心がなく、ルーズといえばルーズであり、しかしその分、言葉はむしろその周縁に不思議な置かれ方をして、そこから、思いもよらないような生がひろがっていくのだ。「きみ」はもとより、匿名の「彼」や「彼女」をも含む、なんといったらいいのか、すぐれてポップな心身の共生空間。本書を読む喜びはその発見に尽きる。「そのあとの動く雲/そのあとの音楽/そのあとの/「存在しえないもの」を閉じこめている瓶を割って/さまざまな影の上を歩いた日々。/そして今日、私は/烈しく泣く見知らぬ人々のなかにいる。」

 とここまで書いて、2冊では済まないことに気づいた。詩と手紙が似ていることや、脱中心的な主体というトピックから、もう一冊、森川雅美『夜明け前に斜めから陽が射している』(思潮社)が浮かび上がってきているのである。

 詩は誰に向かって書かれるか。いうまでもなく、不特定の読者に向かってである。だが、場合によってはとくに読んでもらいたいと作者が思う人が限定され、タイトルの脇にその名が付されることがある。いわゆる献辞だ。作者は詩を通してその人と共有した何らかの体験を語ったり、あるいはいま書こうとしている詩がその人の作品に触発されたものであることを伝えたりする。つまりそのことが、詩と手紙をその類同性においてふたたび出会わせるのだが、『夜明け前に斜めから陽が射している』もまた、そのような「献げる詩」から成り立っている。しかしその姿たるや、尋常一様ではない。森川は献辞の相手(多くは詩人である)の作品をじつによく読み込んでおり、テーマから使用語彙まで、適確にまた巧みに自分の詩に織り込む。その結果、たんなるオマージュでもなければパロディでもない、つまり捧げる者と捧げられる者とが渾然となってひとつの世界をつくりあげているというような、見事なテクスト間交流が立ち上がったのである。

 なお、冒頭に置かれた「おやすみ土偶ちゃん」と後半部に置かれた「みずがひのたかさをこえる」は、いずれも献辞なしだが、力作である。天地をそろえ、ひらがな表記による意味の揺らぎを生かしながら、たとえば「みずがひのたかさをこえるみずがひのたかさをこえる」と、呪文の無限旋律のようにつづく詩行は、今日のアポカリプス的な状況に向き合い、あるいはそれを呼び寄せてもいるかのようである。詩のささやかな力を試そうというのだろうか。いずれにしても、冒険的な一冊である。

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