我目には、今年ばかりの 松野志保
三月十一日の地震から二,三日後だったろうか。「ああ、もうすぐ桜が咲くな」とふいに思った。東京は三月末、東北では四月の中旬から下旬にかけて、こんなにもひどい災害が起き、多くの人が亡くなり、いくつもの町が壊滅したのに、花は咲くのだ。それは間違いないことなのに、その時点ではなんだか現実感がなく、同時にひどく残酷なことに思えた。
それからまもなく、今年の花見を自粛すべしという声があちこちで上がり始めた時、私はそれは違うのではないかという気がして、次の一首を思い浮かべた。
いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす 正岡子規
病床の子規が詠んだあまりにも有名な一首である。いちはつはあやめに似た白い花。初夏に咲くその花を見ながら子規は、自分が来年の春を迎えることはないだろう、いちはつを目にするのも今年限りと感じている。
震災の死者たちは今年の桜を見ることはかなわなかった。それと意識することはなくとも、去年の桜はその人々にとって最後の桜だった。
同様に、今年の桜が「今年ばかりの」桜となる人もいるだろう。だから、花を見ながら酒を飲む気になどなれない人は別として、花見を我慢をしてほしくない、ひとときどんちゃん騒ぎをして楽しい時を過ごすのもよし、去年と変わらぬ花を眺めながら失われたものの大きさを噛みしめるもよしと思ったのだ。
震災後、石原慎太郎都知事は「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と語った。この「天罰」発言が批判をあびたことに対し、福島泰樹は雑誌『正論』の連載「日本よ!」において「その通りではないか」と擁護し、「しかし、しかしである。その天罰をなぜに、東北地方の民が受けなければならなかったのだ。天罰であるならば、津波は首都東京を襲うべきではないか」と嘆く。
しかし、しかし、と私もまた思う。東北の人々が善良で、首都に住む者が罪深いという図式は本当にそうだろうか。あるいは都知事が言うように、戦時中の連帯感はすばらしく、今の人々が我欲にまみれているというのは本当なのだろうか。
いわゆる首都直下地震は明日、起きてもおかしくないとされている。東京が壊滅したら、それはそこに住む人々に対する罰なのか。原発事故を見ればわかるように、都市が地方を利用し、盾とすることは確かにある。だが、人はどこに住もうといつの時代でも、そう変わりなく善良かつ我欲を持った「無辜の民」なのではないか。少なくとも旧約聖書のバビロンのごとく、天罰を受けるに値するほど罪深い場所がこの世あるとは私にはどうしても思えないのだ。大陸プレートと海洋プレートがぶつかり合う不安定な場所で、こんなにも殖え、栄えてしまった不運を嘆きはするけれど。
結局、これほどの悲劇を前にしてさえ、私も含めて人は自分の見たいものをそこに重ねているのかもしれない。
ともあれ、三月十一日の震災は私たちのものの見方、考え方を大きく揺さぶった。大切なもの、営々と築いてきたのが、一瞬にして根こそぎ奪われていくのを私たちは見た。
さらに、今後、数十年の間に同じ光景をもう2,3回、目にする可能性さえある。前述の首都直下に加えて東海・東南海・南海の連動地震、さらに、いつどこで動くかわからない活断層。
この喪失とリスクが、これから作られる詩歌にどのような影を落としていくのか見守っていきたいと思う。
想像した時はひどく現実感を欠いていた今年の桜も咲いて散り、たちまち葉桜となった。その後もさまざまな花が季節を彩っている。それらを目にするたび、心の片隅で「我目には今年ばかりの」とささやく声がする。