田村元『北二十二条西七丁目』を読む
『北二十二条西七丁目』は田村元の第一歌集である。
酷暑に疲れ果てた八月の心身にしみわたるような、快さを感じる一冊だった。タイトルは、著者の大学時代の住所だという。
札幌は、碁盤の目のように道が作られた美しい街である。私は小学生のころ、父の転勤で三年ほど「北十条西十八丁目」のアパートに住んでいた。田村の住んでいた場所から見て、北大を挟んだ南西に私が住んでいた場所がある。学校が終わると、友達と連れ立ってよく北大に自転車で遊びに行った。木々の緑のなかに建物のレンガ色が美しく映え、広い構内には小さな川が流れていた。私たちが芝生で転げ回ったり小川をわたったりしているそばで、大学生が木陰に寝そべって本を読んだり、お弁当を食べたりしていた。
田村は群馬県桐生市の出身で、大学の四年間のみ札幌に住んでいたらしい。偶然だが、私も札幌に住む前は群馬県高崎市に住んでいた。四年だけ住んだ札幌の住所をタイトルにした気持ちが、だからなんとなくわかる気がする。
どこもかしこも真っ白になる冬、いっせいに花の咲き乱れる春、爽やかな夏は緑にあふれ、短い秋が過ぎて雪虫が飛び始めると、もう冬だ。どこか日本離れした気候と街の様子は、もともと持っていた詩情を刺激したことだろう。歌人としての田村は、札幌で生まれたのだ。
幸福にならうと思ふ一枚のシャガールの絵を壁に掛けつつ
幸福になりたい、という誰しも当たり前のように持っている願望を、さらりと言ってのけて嫌味がない。シャガールは、妻ベラへの一途な愛をテーマに絵を描いたことで有名である。ここで幸福とは、要するに愛のことであるらしい。若々しく健やかな望みを掲げて、歌集は始まっている。
街路樹に夜明けを探すふりをしてガラスに映るきみを見てをり
ひとり来てみればカモメが鳴いてをりきみが碧いと言つてゐた海
いずれもまだ愛とは呼べないような、恋の始まりの歌である。
ガラスにうつる姿を、さらに街路樹を見るふりをしてそっと盗み見ている夜明けの道。初々しさが、歌の調べの良さとともに伝わってくる。二首目も、何をしても相手を思い出してしまう心の有り様が、爽やかに表現されている。きみが言うことによって特別になった碧さが、自分だけに見える。まだ成就されない恋からしか得られない、孤独と豊かさが伝わる。
しばらくは敬称つきできみを呼ぶ晩春の底を象が歩めば
弘前の桜を咲かせゐるころか前線はきみへと北上しつつ
残業も折り返し点 粉雪が
就職して東京で働くようになったころの歌からひいた。北に置いてきた恋人がいるのだろうか、と思いながら読んでいくと三首目に挙げた歌に出会い、青春を過ごした札幌が、恋人のいる地であると同時にひそかな憧れの象徴にもなっていることがわかる。巻頭の歌にも見られたように、どの歌のなかにも小さな憧れが表されている。何かを求めてやまない青年の甘さと苦さが、いずれの歌のなかにもある。
一抹のナルシシズムを剥がしゆく春の雨音こもる脱衣所
春怒濤とどろく海へ迫り出せり半島のごときわれの〈過剰〉が
歌壇賞受賞作からひいた。服とともに少し脱ぐ自己愛、荒れる海へ迫り出す半島にたとえられる「われ」の過剰。いずれも鼻につくような自己愛でも過剰でもないところがいい。いい意味で軽く、甘みがある。その軽やかさが「春」という季節が歌によく出てくる心理につながっている。ぼんやりとした不安定な過渡期の季節だが、雪がとけて明るい季節に向かっていく希望がある。
札幌の春は遅い。五月になってやっと春がおとずれ、いっせいに街中の花が咲く。新緑のあふれる北大構内には、ライラックの薄紫の花が、良い香りを放っていた。
花びらを上唇にくつつけて一生剥がれなくたつていい
居たたまれなさと共にあるロマンチシズムを感じる。「くつつけて」という言葉が少しコミカルで、辟易するようなロマン主義を回避している。笑われたっていいさ、という男の子っぽい態度も好ましい。
田村は1977年生まれで、私のほぼ十歳下である。モラトリアムののち職を得てそれを脱するという精神的成長からも、多数の職場詠から読み取れるサラリーマン生活への屈託からも、時代と関係なく誰しも感じる共通の思いを出ない印象を受ける。たとえばこの二十年ほどの日本経済や社会の激変による影響は、この歌集には驚くほど見られない。おそらく田村が歌に求めるものがそうさせているのだろう。しかし、たとえば師である三枝昂之が青年だったころの歌とは、当然だいぶ隔たりがある。
まみなみの岡井隆へ 赤軍の九人へ 地中海のカミュへ 三枝昂之 (『やさしき志士達の世界へ』)
わがために斎藤茂吉が何をしてくれたといふのだらう、椿よ 田村元
歌人の名前が詠まれた歌を並べてみた。三枝が、自らのみならず当時の青年たちに共通して深い影響を与えた人々へ呼びかけているのに対し、田村の歌にある「斎藤茂吉」は、自分に何もしてくれない、という。これはもちろん反語なのだろうが、実際のところ、現代の若者にとって斎藤茂吉は、三枝が当時の政治や社会の反映として使った人名のようには使えない。斎藤茂吉は何もしてくれないし、会社の同僚にはどうでもいい人かも知れないかもしれないけれど、この歌の主体の精神にとってはたいへん重要な人であり、それは椿に向かってするしかない告白なのである。まっすぐには叫べないつぶやきのような告白の仕方が、時代の変化を感じさせる。
ひとり識る春のさきぶれ鋼(はがね)よりあかるくさむく降る杉の雨 三枝昂之 (『水の覇権』)
春の雨われを包んでわれをややはみ出しさうなものを ゆるして 田村元
春雨の歌も並べてみる。三枝の歌の、孤独を表現するアイテムとしての雨に対し、田村の雨はもっとやさしく、自分を包んでゆるしてくれる存在である。「街は昏れゆきそして世界の夜をつむぐ言葉の束を抑えがたしも(三枝昂之)」といった「言葉」に大きなものを負わせることが可能だった時代から四十年後の青年には、言葉への過剰な期待や挫折はなく、自分の少し外側にあって微かに応えてくれるものとして把握されている。こうした甘えた少年のような歌があるのも、わりと現代を表しているのではないだろうか。
「七百円の中トロを食ふ束の間もわれを忘れることができない」という歌もあるが、田村の歌に頻出する「われ」とは、歌の主体であるだけでなく、生活を営む際にはほとんど不要にもかかわらず「忘れることができない」詩情や憧れのようなものだと思われる。
少年っぽさや清潔な詩情という意味では、田村の歌は三枝昂之より弟の浩樹の歌をどこか思い出させる。
一片の雲ちぎれたる風景にまじわることも無きわれの傷 三枝浩樹 (『朝の歌』)
自己愛の内にこもれるナルチスを水辺に置きて森ぬけてきし
純潔すぎるともいえる孤独と自己愛。甘くロマンチックな気配が田村の歌に近いように思うが、孤独の有り様は違う。
さみどりの唯我論あり 羊歯類がからかふやうに胞子を飛ばす 田村元
ふるさとを遠く隔つる同士にてキリンの首も冬ざれてをり
ふりがなをわが名に振りてゆくときに遠くやさしく雁帰るなり
海豹(あざらし)に包囲されたる灯台のごとく余寒をそびえてゐたし
田村の孤独には、常に何者かが寄り添っている。孤独な「われ」を意識するとき、羊歯類にからかわれ、キリンの首が仲間に見え、遠くわたってゆく雁がいる。孤独にそびえる灯台のまわりに海豹を点在させる心情は、青年時代の三枝両氏いずれにも理解されないものかもしれない。孤独を屹立させることなく、少し情けない方にもっていく。自己愛や孤独を今の世に表するための匙加減が絶妙である。
さて、巻頭の歌で望まれた「幸福」は、歌集のなかで、下記のようなかわいらしい恋人を得て結婚へと至ったことが読み取れる。
気に入られやすき人にて居酒屋でたまにもらつて帰る焼き海苔
疲れ果てわが寝室に入り行けばシェーのポーズで熟睡の人
旧姓を木の芽の中に置いて来てきみは小さくうなづいてゐた
幸福な物語を読むこと。それはもちろん幸福な読書ではあるのだが、私がさらに幸福を感じたのは、下記のような歌を読んだときだった。常に「われをはみ出しさうなもの」を恋う心がここにはあり、それを受け止める器として、田村にとっての歌があるのだろう。札幌に住んでいたころ始終感じていて、子供ゆえにそれが何なのかよくわからなかった感情が蘇った。あれは漂泊への憧れだったのだ。
マークシートの円をわづかにはみ出して木星の輪のやうなさみしさ
川面より照り返さるる堤防にいとしさばかり先を行くなり
投げられし書類拾はんと屈むときある油絵のひとつが浮かぶ
暗きことかなしきことを思ふときわれは遠くの伽藍であつた
いまだ何者にもあらず冬の日の雲ひとつなきあかるさのなか