赤い新撰「このあたしをさしおいた100句」鑑賞第1回「~春うらゝお日柄もよくむかつくぜ~」/筑紫磐井

総論
御中虫の「このあたしをさしおいた100句」で取り上げられた句を数えてみる。こういった分析は正岡子規が存命中よくやったものだ。私も子規の気分で読んでみる。

①小野あらた(10句)、②矢口晃(8句)、山下つばさ、④小林千史(7句)、⑤福田若之(6句)、林雅樹、雪我狂流、⑧野口る理(5句)、谷口智行、岡野泰輔、⑪阪西敦子(4句)、山田露結、望月周、⑭南十二国(3句)、津久井健之、津川絵理子、太田うさぎ、渋川京子、⑲松本てふこ(2句)、岡村知昭、齋藤朝比古、22依光陽子(1句)好き嫌いがまことに激しい。御中虫はやはり若い小野あらた(20歳)を可愛がり、依光陽子(48歳)の批判を苦手としているのか。もちろんこれは個人の趣味。

 そこで第1回の「~春うらゝお日柄もよくむかつくぜ~」から、御中虫の刺激的な批評を私の無刺激的な批評に翻訳して読んでみる。面白い御中虫の文章にまどわされず、つまらない真理を探究しようと言う批評家的態度である。落語で言えば「目黒のさんま」である(目黒の百姓家で食べた秋刀魚の味が忘れられない殿さまが、家来にさんまを所望すると、あのような下賤のものを殿さまに出すわけにいかないと、脂をすっかり抜き、骨を一本一本抜いてグズグズになった形を椀の中に入れて出す、余りまずいので殿さま、「いずれで求めたさんまじゃ」、用人「日本橋魚河岸で求めてまいりました」、殿さま「うむ、それはいかん。さんまは目黒に限る」)が、御中虫の言説でかっかとした人に冷静に考えさせるための工夫である。前段のほめている部分は批評しても面白くないので、後段の罵詈の部分をもっぱら対象にしてみる。

言っておくが、【御中虫原文】は御中虫の発言を都合のいいようにカットアンドペーストしたものであるし、【翻訳】はさらに御中虫の発言に触発されて私の思いついたテーマであり、御中虫の発言の要約でも何でもない。さらに言ってしまえば、【批評の批評】はそもそも私の言いたいことを言うための欄であり(だから【御中虫原文】と【翻訳】はそのためのつけたしだしだ)、【御中虫原文】とは最終的には何の関係もないことだ、いや多少は関係付けたいと思っている。連句で言えば「匂付」と言ってよろしいだろう。では、以下さっそく続けることとしよう。

 (「麒麟から御中虫への手紙だよ」の真相」で次回からといったが、事情により同じ紙面ですぐ始めることにする)

①【御中虫原文】
おつぱいを三百並べ卒業式 松本てふこ

 (前略)

おまへにとつて「おつぱい」とは何だ!どういう意味をもつのだ!
「おつぱい」は太古の昔より女性の象徴であり、かつ男性にとっての憧れであった。時は移ろいジェンダー論、フェミニズム運動、あとなんやワシャ知らん、そういったあれこれが「おつぱい≒女性」といふ一面的な見方を崩した今も尚、多くの男性は女性を見るときにまず胸を見ると聞く。あたしは別にさういふ男性諸氏を擁護したいわけではない。擁護したいわけではないがしかし、てふこくん。この150名の女生徒のなかにおまへはまさかゐなひだらふ。我が身をノンセクシャルで透明な身体性を持ったものとし、あたかもチェスの駒のやうに「三百のおつぱい」を天の高みから淡々と「並べる」。この行為、おまへ、ナニサマ!? そして男性諸氏の素朴な「おつぱいファンタジー」を台無しにする、おまへ、ナニサマ!? ここにあたしはてふこ氏の若い女性ならではの傲慢さを感じ取り、ある種のおつぱい幻想をわずか一句で無情にも叩き潰す彼女の高圧的態度を感じ取ってむかつくものである。

【翻訳】
「おつぱい」が性の象徴だとしても、「おつぱいを三百並べ」と言っている作者は「おつぱい」を具有している同性としての共感を抱いていない。だからこの句は女性的な句ではない。

【批評の批評】
この句の解釈としては、現在そこにある「おつぱい」を持つ成熟した性的存在の女生徒と見るか、入学から卒業に至る6年間の時間経過で「おつぱい」を持つ存在となる変化する女生徒と見るかで評価が分かれるのではないか。「卒業式」は、通過儀礼として無垢なるものが成熟した女になるちょっとした悲しみも暗示しているように思われる。

②【御中虫原文】
春はすぐそこだけどパスワードが違う 福田若之

 (前略)

しゃらくせえよ、てめえは!悩んでんだろ。なんかしらんけど悩んでんだろが。違うか。違う!僕は悩んでなんかない!っていうならそれはそれでおまへがただのバカであるということの証明にしかならんので黙って聞け、おまへは今悩んでをるのだ。だったらもっとなあ、素直になれよ。パスワードが違うんじゃねーよ、相談相手が違うんだよ、ただそれだけのことだよ、もっと人を選べ人を。誰になにを相談してんのか知らんがおまへの相談相手はきっとこの句のよさを理解できないバカなんだよ、だからおまへもぐらついてパスワードとかいうスノッブな単語をつい口走るようになっちゃったんだよ、だからそーゆーおともだちとは今すぐ縁を切りなさい、ねっねっ、あなたまだ仔猫ちゃんなんだから。

【翻訳】
「パスワードが違う」ということは伝達ができないと言うことと、作者が伝達を求めていると言うことである。極めて現代的であるけれど、素材そのものが新しいわけではなく、本質的な人間の孤絶感を春と結びつけている意味では変わりはない。

【批評の批評】
文学においては、ちょっとした謎が常に求められているとすれば、このなぞは「パスワード」の意味が分かったとたんにすべての謎が解けてしまうように思われる。

③【御中虫原文】
さくら、ひら  つながりのよわいぼくたち 同上

ほらみろ自白しやがったじゃねーか!「つながりのよわいぼくたち」って!所詮おまへの人間関係その程度なんだよ。言っておくが仔猫ちゃん、「ぼくたち」のなかにあたしとかをまかり間違っても含めてはいかんし、世の中の人間みんなが「つながりのよわいぼくたち」に包括されるとかゆめゆめ思うな、そしてそのやうに誤読されかねぬこのやうな句を余白なぞといふまたもや小賢しいテクニックを用いて書くんでは、なーーーーーい!!む・か・つ・く!

【翻訳】
作者は「ぼくたち」、特に「つながりのよわい」という形容を付けることで共感を持たせようとしているが、「さくら、ひら□(一字あけ)」のテクニックで白けてしまう読者が多いのではないか。

【批評の批評】
前の句の批評の続きで言えば、言葉の一対一の対応は御中虫の言うように分かりすぎ見え透いていると思われるかもしれないが、すべての謎が解けてしまっているわけではない。その点で、前の句よりすぐれていると思う。御中虫の言う「白けること」自身を解釈の中に織り込んでいる詠み方は、高度な詠み方であろう。破調にしている(私は「弛緩した律」と言いたいが)効果もこの句に至ってよく理解できるものである。

(参考)
【このあたしをさしおいた100句】(『俳コレ』よりの御中虫百句選)

赤い新撰本編が始まり、御中虫の作品が論じられている。四ツ谷龍や西村麒麟が様々に論じてくれるのだが、御中虫が皆をどう論じていたかを思い出しておくことも必要だ。【このあたしをさしおいた100句】は別に読むに値しない句をけなしていたのではなくて、御中虫の好きな句の御中虫流の愛情表現だったということができるだろう。その意味で、四ツ谷や西村の愛情表現とそれほど違わないかもしれない。

御中虫の選んだ100句だけを客観的に並べて、御中虫100句との配合・取合せの妙を味わってみたい。

第1回「~春うらゝお日柄もよくむかつくぜ~」より

おつぱいを三百並べ卒業式         松本てふこ
家にゐてガム噛んでゐる春休み       野口る理
歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて      福田若之
春はすぐそこだけどパスワードが違う     同上
さくら、ひら  つながりのよわいぼくたち  同上
用もなく人に生まれて春の風邪       山田露結
正直に言へば仔猫を拾ひけり         同上
春霞セロハンテープ剥がせども       岡村知昭
一本になりたき春の煙突群         渋川京子
黒という混みあう色のショール巻く      同上

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