戦後俳句を読む (20 – 2) -「女」を読む-青玄系作家の句/岡村知昭

いつからの癖 あなたの胸で爪噛むのは   黒原ます子

彼女は戸惑っている、そして自分自身が嫌でたまらなくなってしまいそうである、なにしろ恋人の抱擁のまっただなかにあるにも関わらず、なぜか「爪噛む」自分なのである。彼に対する感情がどうこうというわけではないはずなのに、恋人からの抱擁を真正面から受け止めることができない自分なのである。肝心のときになぜ、との思いが彼女の心に重くのしかかるなか、そんな彼女の感情を知ってか知らずか、恋人からの抱擁はさらに強く、熱さを帯びてくるものとなる。それとともに彼女はさらに強く「爪噛む」自分に出会ってしまい、自己嫌悪に爪も心も荒れ模様というところであろうか。しかし彼女のそんな堂々巡りにどこかいじらしさとかわいらしさも感じ取れてしまうのは、彼女が「爪噛む」のは恋人との関係においての自分自身のありようへの不満がもたらすものであるのを、本人が一番わかっているからだ。かつてジュディ・オングが歌った「魅せられて」(作詞は阿木耀子)には「好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る」という一節があったのだが、この句の「好きな男の腕の中」にいる彼女には、いまやそんな余裕すらないのである。

掲出句は1965年(昭和40)11月号に掲載。現在『俳句現代派秀句』(1996年1月 沖積舎)に収められている伊丹三樹彦の選評を以下に引いてみる。

これは又、大胆なベッドシーンの接写ではないか。といっても、猥らな感じはさらさらなく、あるのは愛する相手(男)の胸の中でするおのが行為をいぶかしむ作者(女)の大人っぽい感傷であり、情感なのである。(中略)

おのが行為をいぶかしむ」女性像の居場所を、三樹彦は「ベッドシーン」に設定し、
そこから鑑賞を進めてゆく。この設定の仕方のほうがよほど大胆ではないだろうかという
のは置いて、この読みを進めることによって狙っているのは、女性像をより裸身に近い形
で鮮明にすること、さらには彼女の行為を通して男女間の物語への想像力をより読者に対
して喚起してゆくことの2点にある。その狙いがどこまで達せられたかはさておき、この
ときの評者の脳裏にはまぎれもなく、日野草城の「ミヤコホテル」の句の数々がよぎって
いたであろうことは想像に難くない。「ミヤコホテル」の3句目から5句目、新婚の妻と迎
える「ベッドシーン」は次のように展開してゆく、自分の行為そのものに対して、決して
いぶかしむことのないままに。

枕辺の春の灯は妻が消しぬ     日野草城
をみなとはかゝるものかも春の闇
薔薇匂ふはじめての夜のしらみつゝ

その上で掲出句に戻ってみると、「をみなとはかゝるものかも」とクライマックスを巧みにぼかしながら想像力を強く喚気させるのとは対照的に、クライマックスを過ぎた気だるさは確かに感じられる部分はある。だが、より具体的な鑑賞を進めようとするあまり、彼女の心象をどこかで取りこぼしてしまわっていないだろうかとの危惧もまたある。掲出句はどこかで「をみなとはかゝるものかも」との男性の期待に「大人っぽい感傷であり、情感」をもって応えていながら、一方においては抱擁のまっただなかにありながらまとまりのつかない苛立ちに心揺さぶられる姿を描くことで「をみなとはかゝるものかも」との視線に対する疑問を読者に対して突きつけてくる。彼女はいつでもどこでも、恋人の抱擁にただ喜んでいるだけの「かゝるものかも」ではないことを描く作者の目線は、どこか恋人の抱擁のまっただなかで「爪噛む」彼女の苛立ちのようにも見えてしまうのである。

最後に別の一句(「夜の渚で ひろった あなたの冷たい耳」)の評の一節を引いてみた
い、どうやら作者の「わたしは『かゝるもの』では決してありません」との声に、決して気づいていなかったわけではなさそうなのがわかる評である。

この種の俳句では、いうまでもなく草城に秀れた先業があるが、ます子の仕事は、より主体的であり、より具象的であるところに、やはり戦後を濃厚に感じさせてくれる。

戦後俳句を読む(20 – 2) 目次

戦後俳句を読む/「女」を読む

戦後俳句を読む/それぞれのテーマを読む

相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(3)

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