歌・ひとひらの雪 伊武トーマ
昨日、私は、樹と語り合った。
百年も前の昨日であり
百年も後の昨日である今日、
私は、樹と語り合っていた。
昨日、私は、カラスだった。
千年も前の昨日であり
千年の後の昨日である今日、
私は、樹と語り合うカラスだった。
私は、梢を揺らし
百年の孤独を渡る風であり、
私は、カラス舞い飛ぶ
千年の空をめぐる歌だった。
昨日、私は、風であり、
昨日、私は、ハンターの凶弾に倒れ
深手を負った壮年のオオカミであり、
今日、私は、仲間に危険を知らせるべく
雪深い谷間にこだまする遠吠えだった。
昨日、私は、歌であり、
昨日、私は、針金のハンガーに巻きついた
造花のバラであり、
今日、私は、愛に引き裂かれたひとりの男であり、
三人の娘と一人の息子の父だった。
昨日、私は、道端の石ころであり、
昨日、私は、愛ゆえの孤独であり、
沈黙の殻をまとった歌であり、
今日、私は、樹々を倒し、石ころなどもろともせず、
吹き荒れる風だった。
昨日、私は、瀕死のオオカミであり、
昨日、私は、致命的な傷口に咲く深紅のバラであり、
今日、私は雨をよぶ風であり、
帰る望みのない歌だった。
昨日、私は、唇についたひとひらの雪であり、
昨日、私は、凍りついた歌であり、
今日、私は、全身震えながらベアトリーチェを乞い、
エノウエ川の氷上に立ち込める霧だった
私は、樹である。
私は、樹と語り合うカラスである。
私は、風であり歌であり、
私は、凶弾に倒れたオオカミの遠吠えであり、
私は、文明に蹂躙された造花のバラであり、
私は、男であり父であり、
私は、道端の石ころ、沈黙の歌であり、
私は、愛と孤独の断崖に咲く一輪のバラであり、
私は、雨をよぶ風であり、
私は、目に見えない者たちの接吻、悲歌であり、
私は、悪を忘却させる純白の霧であり、
私は、唇についたひとひらの雪だった。
樹よ。昨日が永遠の今日でありますよう、文明に蹂躙
されることなく、いつまでもそこに立っていておく
れ。
カラスよ。百年の孤独に揺れる梢から飛び立ち、千年
の歌を紡ぐ風に乗り、文明によって抉じ開けられる
鋼鉄の明日に、鋭い嘴を立てよ。
瀕死のオオカミよ。たったひとりの革命、人類最期の
遠吠えよ。昨日より今日がもっと苛酷であることを、
その傷口を晒すことによって皆に知らしめ、血を流
し続けよ。
造花のバラよ。偽りの男であり父である者よ。自分自
身であるため、最も激しい戦いにその身を挺せ。昼
夜を問わず戦い抜き、昨日が永遠の今日であるあの
遥か地平線の向こう、遠い光を見出すがいい。
沈黙の歌よ。道端の石ころである詩人よ。おまえ、詩
人とは、詩を書く者ではなく、詩人とは、誰かの男、
誰かの父、誰かの子、万人のための社会における何
かの役、それら全ての以前にあり、詩人とは、男で
も女でもなく、父でも母でもなく、息子でも娘でも
なく、社会の何の役でもなく、全くの役立たずこそ
紛れもない詩人であり、詩人よ、詩人とは、がらく
たの、ごみ屑の、誰のものでもない、おまえ自身の
生き方そのものであることを、決して、何者にも屈
せず、黙して語れ。
一輪のバラよ。いまここにいる生きている、永遠の今
日を戦い抜け。完膚なきまで血を流し、誇り高き深
紅のバラよ、咲け。
雨をよぶ風よ。百年の孤独を渡り、千年の空をめぐる
悲歌よ。目に見えなければ見えないほど、かつて地
上に存在していた者たちが、ますます顕在化して行
くように、風よ、雨を凍らせ、純白のベールでベア
トリーチェを纏い、この比類なき美神を召喚せよ。
雪よ。唇についたひとひらの雪よ。尊い愛の化身よ。
ひび割れた唇に、いつまでも消えないでくれ。この
歌よ、とどけ。樹に、カラスに、瀕死のオオカミに、
造花のバラに、道端の石ころに、塞がらぬ深紅の傷
口に、美神が滞留するエノウエ川の氷上に。かつて、
地上に存在していた幾億年前のあなたから私に。