後日談から 松本てふこ
まずは、前回の時評の後日談のようなものから始めたいと思う。
前回の私の文章があまりにも尻切れトンボだったので、案の定というかなんというか、twitterにて句友T氏からツッコミが入った。賞という枠組で評価し得ない人材は確実にいるが、そこの部分への言及の不足、商業的価値を出版社側から認められた人材が選ばれるのではないか、という見えざるシステムの指摘に始まり、応酬は短歌と俳句の賞の間口の違いに発展していった。
私はT氏が提示した話題の全てに反応できたわけではないので、具体的なトピックとして取り上げることは避ける。民間の企業で働く会社員として日々具体的な成果や数字を出すことを求められ、それがなかなか(というか超)窮屈だけれどまだ全く楽しくないわけでもないしお金を稼ぎたいしそのお金を使って遊んだりもしたいのでどうしようもないなと思う人間でなくとも、好きでやっていることに対する気持ちに魔が差す瞬間というのはどうしても生まれてしまう。どうして好きで、楽しくてやっていることでまで具体的な成果を出さなきゃ、出さなきゃって頑張らなきゃなんないの?
という、実に個人的な苛立ちのままに前回の文章を書いたのであったが、考えてみれば誰かに理不尽に怒られたわけでもないのに何をイライラしていたんだろう、と思う。会社で理不尽に怒られることは日常茶飯事なので、在宅時にも被害妄想に陥っていたのかもしれない。恐ろしい話である。
結社「童子」での仲間であるT氏は、私よりずっと賞とそれがもたらす社会的(対人関係の面での、という言い換えも可能か)な影響に敏感であり、しかも作句を始める前は短歌も詠んでいた。彼が大学の研究発表で短歌を詠んだところ、「お前なら俵万智の二の線を狙える」と大学の同級生に唆されて本格的に短歌を学ぶことになったというエピソードなど、『サラダ記念日』がもたらした社会的影響を具体的に表していて大変興味深い。
そういえば、先日映画『乱反射』を観る機会があった。富山行きたーい! とか、おっぱいアイス食べたーい! とは思ったのだが、これを観て短歌を始めたくなったり、短歌を詠むのってステキ! と思う、主演の桐谷美玲ちゃん好きの女子がいるとは失礼ながらそれほど思えなかった。イラストをぽんぽん描きながら短歌を小さなノートに書き付けるヒロインは可愛いと思ったけれど、それは彼女が描いたキリンのイラストが可愛いからであって、言葉と向き合う姿がどうこうという問題ではなかったように思う。
前置きが異常に長くなってしまった。今日の本題はここから。
ここ数年で、俳句関連の本を送って頂く機会が増えた。以前は「送って頂いた本を取り上げるということはしがらみに囚われているということ、自腹で買った本について書いた方が気も引き締まるしかっこいい!」と思っていたこともあった。自腹で買った本がもたらす独特の緊張感は今も大いに感じるところではあるのだが、最近はだんだん「ネタを提供して頂いているのにないがしろにするのは送って頂いた側にも失礼であるし、勿体ない」と思うようになった。というわけで、頂いた本を時評にも積極的に取り上げていこうと思っている。
今回取り上げるのは、今年に入って毎号送って頂いている『里』。この俳誌には長年、ちょっと他の俳誌にはない独特のペーソスを感じている。
『里』は、表紙裏の島田牙城氏の「まへがき」からいつも飛ばしている。最近三号をめくれば、4月号は震災と朗読イベントの仕切りと新聞への俳句作品掲載で疲労困憊状態、5月号は自らの句集へのパンチの効いた反応を報告しつつ再出発しようとする被災地の会員の動向を知らせ、6月号は自ら編集者として汗を流す邑書林でのMac導入に大いに惑う、という具合である。大ネタ、中ネタ、小ネタをバランス良く配置し、読者を飽きさせないところも見事で面白い。
4月号は朗読イベント「朗読火山灰」が行われたということで、各演者の朗読作品を掲載し、5月号の牙城句集『誤植』特集では著者自身が編集長の仲寒蟬と息ぴったりの対談ぶりを見せ(特集タイトルが『にこにこ誤植対談』とは何たるブラックユーモア!)、一句鑑賞には時評欄でお馴染みの山田耕司や、さっきの賞の話ではないが芝不器男賞受賞によって大いに注目されることとなった杉山久子など、『新撰21』『超新撰21』組がちらほらと登場していた。
前二号の賑やかさに比べると、通巻99号である6月号は表紙に特集名の表記もなく、静かな印象である。その代わり、各連載を雑誌の冒頭部に掲載し、注目度を高めている。私が特に注目しているのは、小林苑を氏の飯島晴子論「空蟬の部屋」。鋭い筆致と率直さで、晴子の句や評論に切り込んで行くところが毎号小気味良いのだが、6月号では「われをよぶ父よあかるく蛭と泳ぎ」という句から見えてくる虚構に満ちた父像、そして現実に存在していたこともある父親をそう描いたことが「言葉を独り歩き」させる句風の晴子の句業を顧みると過渡期であったことを指摘している。女性俳句におけるファザーコンプレックスについてここ数年思うところがあった私にとってはわくわくする内容だった。次号の100 号は記念号だろうか、今から楽しみである。
「一里塚」という会員のコラムや投書が掲載されるページに掲載されている男波弘志氏のコラム「狸毛の筆から」が毎号短くも鮮烈で必読である。「一寸でも天平の線描を引きたければ生活そのものを改めるべきであろう。」鮮やかな一文。
以下、6月号から感銘句を抽出した。
蛙は蛙選擧をしてもしなくても 仲寒蟬
若葉風手摺りの点字見て触れる 勝又樂水
群生のあやめに溶けて夫とゐる 竹内笑菫
ピーマンの話ばっかりする男 津田このみ
汗ふきを入れて荷造り仕舞ひけり 六
若ければいいといふ世のさくらかな ひらのこぼ
となりとは間取りの違ふ花の宿 水内和子